2009年10月26日月曜日

かんだじょうすいみずばしよう

南こうせつとかぐや姫「神田川」が流行した頃の神田川はまだ硫化水素などぶくぶく状態だったのでしょうか???三畳一間の小さな部屋から見下ろせば、そこに清流ありとい情景ではないですよね、、、。
椿山荘の隣りの神田川沿いに「関口芭蕉庵」と称する個人所有の庭園が無料で公開されていますが、そこで芭蕉が俳句をひねっていたというわけではなさそうです。

一昨日は、あちこち歩き回る時間的余裕がなかったので、どこへ寄ろうかと手持ちの地図をながめていたらバラの花マークの付いた公園をみつけました。地下鉄丸ノ内線・本郷三丁目駅からすぐのところにある「本郷給水所公苑」というのが、それです。
行ってみると、、、水道局らしきフェンスに囲まれてしまっていて、バラの花が咲いていそうな公苑など見あたりませんでした。代わりに(?)「東京都水道歴史館」という入場無料の展示館があったので、入ってみることにしました。
2階の展示室は、主に徳川家康がつくらせた小石川上水(神田上水)など江戸時代の水道に関するものでした。この種の施設は、見に来そうもない人を来させてなんぼのもん!!というものでしょうから、金のかからない有名人を使うのが良いかと思うのですが、木っ端役人の知らぬ存ぜぬ所なのか、松尾芭蕉が4年間ほど神田上水の工事にかかわっていたことなど、一言も触れられていませんでした。
伊賀上野を本拠地とする忍者集団は、今なら人材派遣業者のようなもので、情報収集だけでなく、いろいろな技術を持った人を日本全国へ派遣していたのではないかと思います。芭蕉は、29歳の時に江戸へ来ますが、俳諧だけで食べてゆけなかったのか、34歳の時から神田上水関連の仕事をしています。現場監督のような仕事ではないかとされてます。「水方の官吏とせし」とする文献もあるので、公務員になったのかもしれません。このときの作業小屋でもあった可能性のある場所が、前述の関口芭蕉庵になります。芭蕉がそこに住んでいたかどうかは、文献上では分かっていません。4年ほどで工事完了し、芭蕉は職を辞して剃髪し、出家状態で深川へと移り住みます。

バラ園のある公苑は、水道施設の建物の上に存在していて、歩道橋みたいな階段をのぼって、たどりつけました。パンなどを撒いている爺さんがいて、沢山のハトやスズメが集まってきていました。神田上水の「石樋」というものが復元展示されてました。本郷一丁目から出土したものらしいので、芭蕉はかかわってないでしょうけど、、。
「横丁の風呂屋」まで関口芭蕉庵からすぐのようです。

1 件のコメント:

  1. 神田川が流行った頃、受験に行きましたが、今ほど臭くは無かった気がします。

    東京に憧れ、全敗で夢破れ(^^;、転勤の形でこちらに来たわけですが、喜び勇んで来た割には、憧れた東京はもうなかった。時が経ちすぎましたね。彼女と六大学の野球ミに行ったり、風呂屋で待ち合わせしたかったのになぁ。

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