2009年10月18日日曜日

夢枕立つより金を持ってこい

金売り吉次の墓に着いたときにはもう午後1時半になってました。墓は畑の中ではなく水田の中でしたが、稲はすでに刈り取られていました。すぐ横に最近になって出来たようなセブンイレブンがあったので、おにぎりでも買おうと思ったら売り切れ同然でしたので、菓子パンを買って、少し先に見える一里塚の上で座って食べることにしました。日本橋から二十四里目(96Km)で、江戸時代の古文書では松の木が植えられていたそうですが、今はどう見ても松ではないようでした。
午前8時頃に間々田を出発した芭蕉と曾良は、どこで昼食にしたのでしょう???
嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫)では、、、”吉次の墓から二キロほど街道を北上した下赤塚の畑に低い古墳を見つけた。”とあるので、いつの間にやら細切れ奥の細道散歩が、読んだこともない義経記散歩へと変容してゆくのでした。
二キロほど歩いても古墳らしきものは見えてきませんでした。嵐山は、まるで歩いて見つけたかのように書いていますが、タクシーの車窓から偶然見えた古墳へ寄っただけのことでしょうから、古墳は進行方向の左側にあるはずで、歩いて見つからないわけがありません。
吉次の墓からは、歩いて一時間ちょっとかかり、たぶん四キロ以上はありました。タクシーならば5分とかからない距離なので、後から地図で確認もせずに「二キロほど」と書いたのかもしれません。
曾良が吉次の墓のことを書かなかったら江戸時代のうちにもう畑の中の邪魔な石になっていたと考えられますが、、、こちらの古墳は、源九郎判官義経の冠を埋めたというような伝説があるようです。ところで、吉次の墓はさらに北へと行った樅山駅の近くにもあるとのことです。
墳丘は全長61メートルほどある前方後円墳で、高いところは5メートル以上あるので、上に登るのはちょっと大変でした。遠くに日光連山が見えて、爽やかな風が吹いていました。周りは全て田んぼで、古墳までは細い畦があるだけでした。アザミの花が咲いていました。多くの小さなバッタが跳ね回っていました。
曾良は、古墳のことなど書いていないので、ここで芭蕉も一休みしたかどうかは分かりませんが、なんとなく気付きもせずに通り過ぎたのではないかと思えました。当時は、教育委員会の説明看板などなかったでしょうしね(笑)
さてと判官塚古墳からは、少し引き返して思川を渡り東武日光線の東武金崎駅から帰ることにしましたが、駅に着いたら次の上り電車は50分も先でした、、。

1 件のコメント:

  1. なるほど(・・)同じような時間、同じように歩いたら、江戸の昔と似たような体験ができるのかもしれな。お腹の好く場所は同じだろうからね(^^)

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