2010年8月31日火曜日

暑さねばねばスリープトゥナイト



多摩動物公園へ行きました。

温室ドームとなっている”昆虫ユートピア”は、空調の関係で外より涼しいのではないかと思っていたのですが、そんな期待は一瞬にして蒸発してしまいました。午前11時を過ぎた頃でしたが、、、こんなに閑散としているのは初めてというくらいに人がいませんでした。

それも尤もなことで、、、汗がどんどんふきだしてきます。着衣のままサウナに入っているようなもので、着ているものが段々と鎧のように重くなってきます(^^;)

飛び回っている蝶の数も少ないように思えました。数羽いるはずのハチドリの姿が見つけられませんでした。

多摩地区には、光化学スモッグ注意報がでていたようです。都心部の排気ガスなどが、都心部から離れた場所で悪さをするという感じで、熱中症と複合したらけっこう危険なのかもしれません。

太陽光線の強さが、そのまますぐに気温に反映されるのならば、6月下旬の夏至の頃が最も暑くなるはずですが、実際には熱が少しずつ蓄積されることによって、立秋の前後が一番暑い時期になるようです。今年は、その「熱」を冷ます要因が少ないので、まだまだ「蓄積」が続いてしまっているということになりそうです。

初めて「ライオンバス」というものに乗ってみました。大人350円です。15分毎の出発なので乗車時間は約8分だけ、、。檻の中のライオンを見るのではなく放し飼いにされたところにバスに乗って見て廻るという方法は、どこかのサファリパークの「発明」かと思っていたら、多摩動物公園が元祖本家でした。1964年世界初のライオン展示方式をとった施設としてオープンしたそうです。バスの外側には、馬肉を付けておくので、それを食べにライオンがバスの窓を舐めるように寄ってくるというのが仕掛けなのでした。

写真は、動物園が飼っているわけではなさそうなアオサギ(?)です。

2010年8月29日日曜日

虎と狸の胸算用



とばしてしまいましたが、27日の金曜日には上野動物園へと行きました。なんとなく気分的には、多摩動物園の昆虫園だったのですが、容易く行けるほうになってしまいました。

体中に針が生えているようなカナダヤマアラシは、大きな氷を抱えこんで動き回る気などまったくないという感じでした。シロクマのところは改装中だったので、この夏はエアコンで涼しい部屋に入れてもらっているのかもしれません。

ネットのニュースで、着ぐるみアルバイトの女の子達が背中のチャックを開けて涼んでいるところの写真を見ました。”ヤラセ”で撮ったのかもしれませんが、背中とブラジャーだけ写っていました。汗を吸い取る下着は身につけないのでしょうか???

ふと思ったのですが、本物の動物の剥製から作った”着ぐるみ”というのは、あるのでしょうかね? 本当の虎の着ぐるみは、とっても高価な物になりそうです。

虎はずいぶんと棲息数が少なくなっているようで、、、地球上で生き残るには、腕力などが強いだけではダメということになりそうです。弱い動物の代表のようにも見えるウサギは、個体数では一番多いほうの種になるのかもしれません。「セックスには強い!!」ということらしいです。プレイボーイ誌のキャラクターがウサギなのは、そのあたりを象徴しているのだそうです。本当かどうかは、ひゅーっとヘフナー氏に訊いてみてください(笑)

さてさて小沢一郎は、滅び行くトラなのか老獪古狸なのかわかりませんけど、、、もうトラぬ皮算用はきっと終わっているのでしょうね(^^)v

2010年8月28日土曜日

ばんばんじゅんじゅん30回目だ!!アジャパー\(^^)/



今年で30回目の開催になる浅草サンバカーニバルを見に行きました。

早めに出かけて浅草寺の裏手でアレゴリア(装飾した山車)の制作準備を見たりしたこともあったのですが、今日は午後1時開演の20分ほど前に到着でした。

出遅れた割には、まぁまぁ見やすいポジションを確保できたかと思ったのですが、パレードがやってくる斜め前方の視界を遮るように巨大カメラを持った背高白人がひとり立っていて、とっても邪魔でした。道路内に座るところを確保した人達は、みんなちゃんと座っているのに、、。外国人だったせいか、後ろにいる人も「座れ!!」と言わないのでした。

道路の向こう側の建物が太陽光を遮断してくれるまでの4時間近く直射日光に晒されました。仁王立ち外国人もいなくなり後半はだいぶ視界がよくなりました。しかし後から入り込んだ人の殆どは座らずに立ったままでいるようでした。

いつもならたいていブログに使える写真を撮れた!!という感触があるのですが、今日は最後まで気に入った写真が撮れたという感じがしませんでした(^^;)

昼間、暑いところに長くいたせいか、、、今夜はあまり暑いような感じがしません(笑)

2010年8月24日火曜日

残暑厳しくとぐろまきまきオニヤンマ



三日月村の「絡繰屋敷」は、最初に団扇を貸し出されましたがエアコンもなく蒸し暑くて、息苦しいアトラクションでした。隣の部屋へと移動するには、隠し扉を探したり開け方をみつけなければならないので、まるでなにかの罰ゲームのようでした(^^;)

もっとのんびりできるかと思っていたのですが、他にお客がいないというのもなんだかなぁで、一時間ほどで外へでてしまいました。

墓地を抜けて、大きな土産物屋が廃墟となっている先に「ジャパンスネークセンター」(財団法人日本蛇族学術研究所)の入口がありました。観覧券は、1000円です。ちょっと高いかなぁという感じです。

昔は、マムシだけでも何万匹と飼育されていて、うじゃうじゃしていたそうですが、施設全体がなんとも閑散としてます。いくつもある野外の展示施設は、高さ1メートルくらいのコンクリート壁に囲まれた草むらとなっていて、どこに蛇がいるのかも分かりませんでした。

飼育が禁止されている毒蛇を警察が押収したやつが何匹かいました。かつての飼い主は、ここまで会いに来るのでしょうかね?

入口の近くへ行くと冷気が流れてきて涼しい洞窟は、鉄柵で閉鎖されてしまっていました。三日月村の「怪異現洞」よりもこちらに入って見たいものです。

どこの動物園でも蛇って、ほとんど動かないし、まぁもともと見ていて楽しいという気分にもならないので、ここでも時間が潰れませんでした。

今日も暑くて、そう遠くはないものの、駅までのたんぼ道は灼熱地獄道中でした。駅に着いたら電車は出てしまったばかりで、1時間近くホームで待つことになりました。

10月には「かかし祭り」があるようなので、覚えていたらまた来てみることにしましょう、、、交通費は都心部へ行くのと同じくらいでしたが、月末近くなのにあれこれと多大な出費になってしまいました。

写真のトンボは、作り物のコブラが前後に動いているところにいました。本物のようによくできているけど蜘蛛の糸だらけになってしまっていると手を伸ばしたら生きている本当の大きなトンボでした。追いかけて室内から逃がしてあげました(^^)

暑っちぃには関わりねえことでござんす



上州新田郡三日月村へと行きました。いつのまにやら「群馬県太田市」に併合されてしまったようです。

東武鉄道桐生線・藪塚駅には、午前8時49分の到着でした。駅前には何もないようなところでした。駅から歩いて10分程のところにある藪塚温泉街は大きなホテルが軒を並べていますが、人影がありません。

温泉街の手前に西山古墳というのがあったので、寄ってみました。石室に入れそうなので、中へと入ってみたら、やせ細った白猫が墓守をしていました。奥行きは5メートルくらいありそうでした。真っ暗なのでなにか分からないのですが、天井から生き物のような感触をしたものが次から次へと降ってきます。「ぎゃっ」と叫んで外へと飛び出し、、、バッグから懐中電灯を探しだしたものの長く使っていなかったので、あまり電池が残っていないようでした。

入り直して淡い光の懐中電灯であたりを照らしてみると降り注ぐ生き物の正体は、なんと所謂”便所コオロギ”カマドウマで、壁や天井を埋め尽くすようにいました。

怯えて逃げる白猫の写真を何枚か撮ったのですが、、、カマドウマを口に咥えたなんとも怖ろしい写真が撮れちゃいました(^^;)

三日月村は、テレビドラマ「木枯らし紋次郎」の故郷という設定のテーマパークです。元になったテーマそのものが、とっくのとんからりんと消失してしまっても営業を続けているところが、なんとも凄そうです。

入村料は、630円です。4つあるアトラクション(?)セット券は1575円でした。ここまで来てアトラクションも見ておかないと話の種にもならなそうなので、セット券にしました。村内では、現行通貨は使えないので千円分ぱちもん「寛永通寶」に両替しておきました。

「地底探険施設・怪異現洞」は、プラスチック製みたいな暗い通路を200メートルくらい歩くので、ただ蒸し暑いだけでした。「絡繰屋敷」、「戯耶満館」、「不可思議土蔵」は、おばちゃんガイド付きでした。2ヶ所の入口とアトラクションと食事も出来る休憩所をどうやら5人くらいのおばちゃんスタッフでやりくりしているようでした。人がいっぱい来ることは、もはや想定されていないのかも???

「かかわり~な・木枯らし紋次郎記念館」は、改装中(?)で入れなかったので、一通りまわるのに1時間とかかりませんでした。

いろいろな案内看板も朽ちて読みにくくなっていました。開村から30年ほど経っているそうです。その頃に成人した若者は、「三無主義」とか「四無主義」とかと言われた世代になるのでしょうか、、、まぁ、あっしには関わりのねぇこって(^^)

2010年8月23日月曜日

日陰欲しさのよこよこ歩き



葛西臨海水族園へ行きました。入場者数は多く、あぁまだ夏休み!!なんだという光景があちらこちらに展開してました。

訪れる度に回遊しているマグロの数が減ってゆくような気がすると以前にも書いていますが、体長1メートル以上の大きなマグロは、たったの3匹になっていました(^^;)

数え方は、「匹」でよいのでしょうか???

クジラのように哺乳類ではないので「頭」とは言わないと思いますが、「尾」でもないような感じがします。調べてみたら、、、食卓直行の場合は、「本」→「丁」→「塊」→「冊」→「切れ」となります。出世魚と違ってマグロは魚類の貴族的種でしょうから、没落あるのみなのかもしれません。

カニの写真を撮っていたら飼育係のおねーさんに「ケースの中に手を入れないでください!!」と言われてしまいました。「猛蟹注意!!手入れべからず」と書いて貼っておくべし(笑)

体長1センチちょっとの超~小粒のカニは、小さな穴から出てきてはバンザイバンザイ\(^^)/してました。

昼頃には、園内が混んできたので帰ることにしました。200円で販売中のビッグマックを駅前で食べました(^^)

2010年8月21日土曜日

江戸まで三日三晩の木材筏



「山本有三ふるさと記念館」は、蔵の裏に主屋を増築したようなへんてこりん!!な造りでした。すぐ近くにある「あだち好古館」は、以前に入ったことがあるのでやめておきました。先祖が買い集めた仏像やら美術品などが展示されています。なにか太い筋の通ったコレクションならよかったのですが、、。

メインストリートを渡って、「栃木市郷土参考館」(入場無料)に寄りました。質屋をやっていた板倉家の主屋と土蔵で、約200年前の建物だそうです。入口は、格子のくぐり戸になっています。蔵の梁は、これまで見た蔵の中で一番太いものでした。「松の一本通しの梁垂木」なのだそうです。展示物は、遺跡からの発掘した破片とか、、あまり面白い物はありませんでした。

巴波川の岸へと戻って、「塚田歴史伝説館」に入ってみることにしました。「ハイテクロボット蔵芝居」と大書してあるあたりが、胡散臭くてこれまで敬遠してました(^^;)

塚田家は、江戸時代後期から木材廻船問屋を営んでおり巴波川から利根川を経由して深川の木場まで材木を運んでいたとのことです。「江東区中川船番所資料館」のあたりを通ったわけですね(^^)

700円の入場料を払って入ると三味線ばあさんロボットが都々逸を披露してました。サザエさんのお母さんの声だとかなんとか言ってました。

13分ほどの全自動人形劇がメインの見世物のようでした。ここでも脈絡のない「お宝」があれこれ展示されていました。ミニテーマパークという感じですが、リピーターは皆無かもしれません。ロボットにつぎ込んだお金は回収できたのでしょうかね???(笑)

テレビで「蔵の街・栃木で~す!!」などと放送されるのは、たいてい決まって、この塚田歴史伝説館のあたりになります。舟にも乗れるようなのですが、船頭さんがひとり退屈そうに佇んでました。

最後に創業は明治2年だという「片岡写真館」へ、、、今も営業中の写真屋さんですが、幕末頃の写真が展示されています。建物は煉瓦造りで古いのか新しいのか、よくわかりませんでした。

駅の近くでお昼を食べたら、、、お釣りがを100円少なく受け取って店を出てしまいました(T_T)

2010年8月20日金曜日

まいてまいて@あっと驚く巴波川



ロサンゼルスにあるという「リトル・トーキョー」は、”小東京”とも言うようですが、、、”小京都”や”小江戸”と呼ばれる街は、いったいどれほどあるのでしょう???

関東地方で”小江戸”と言えば、埼玉県川越市と千葉県佐原市(現・香取市)と栃木県栃木市の3市になりそうです。もし「小江戸検定」みたいなものがあれば、その3市に共通するものは何かという出題があることでしょう、、。

今日は、栃木市へと行ってみました。これまで何度も前を素通りして中に入ってみたことがない「横山郷土館」(火・水曜休み)へと最初に行ってみたら、、、閉まっていて臨時休館の札が下がっていました。店舗の右半分は大麻問屋、左半分は銀行をやっていたという明治時代の豪商の建物です。

写真は、横山郷土館の前を流れる巴波(うずま)川で魚を仕留めた直後のサギです。おっしゃれ~!!な黄色の足元ですね(^^)

次に国の登録有形文化財となっている「旧・栃木町役場庁舎」(現在は、栃木市役所別館)は、大正10年に竣工した時計台の付いた瓦葺木造2階建ての西洋風建築物を見ました。横山郷土館のすぐ後ろです。中には入っていません。

道を引き返し、「寺内萬年筆病院」の前を通って、「山本有三ふるさと記念館」へ入りました。入場料は、200円です。貸し切り状態で見物できました。建物は江戸末期に建てられた蔵が使われています。隣りに「銀巴里」という名前の理髪店があります。有三は、明治20年にそこで生まれたそうです。父は呉服業をしていました。

机や書架、応接セットなどが展示されていましたが、これは三鷹の家(現・山本有三記念館)から運んだのでしょうかね???

向かい側には、「山車会館」があります。「蔵」と「川」と「祭」が、小江戸の重要な要素のようです。

2010年8月19日木曜日

油断大敵あぶらかだぶらみんみんみん



今日は雨になるという天気予報を信じていたので、なかなかお出かけ先が決まりませんでした。結局、改修工事ということで一年くらい休館していた江東区深川江戸資料館へ行ってみました。

江戸末期、天保年間の頃の深川佐賀町の町並みを想定復元したという映画のセットみたいな展示です。ワンルーム長屋、商店、船宿、蔵などのなかに靴を脱いであがれます。久しぶりなので記憶が曖昧ですが、特にどこを直したのかよく分かりませんでした。目新しい展示もなかったように思えました。

油断しているとすぐに説明ボランティアの爺婆がよってきて「これは……」と訊いてもいないことをあれこれ説明してくれます(^^;)

霊巌寺には、徳川八代将軍・吉宗の曽孫にあたる松平定信の墓があります。高いコンクリートの塀と閉ざされた鉄の門で、よく見えないのですが、今日は草刈り作業と木の剪定をしていたので、門が開いていました。

境内には、アブラゼミとミンミンゼミがいました。最初は、カメラを向けると逃げてしまったのですが、しばらくいるとセミも油断したのか、上下左右から近接撮影させてくれました。

正午近くになるともう雨が降るような気配は微塵もないくらいに太陽が照りつけてました。

清澄庭園の木蔭で、のんびりパンでも囓ろうと思っていましたが、池の反対側にいつものアオサギの姿が見えたので、昼食を中断して駆けつけてみると、もうどこかに移動してました。どうやら、ほとんど毎日来て、池の鯉や亀に餌をあげている婆さんをアオサギが追っているようでした。この婆さんが撒く餌をアオサギが食べるのではなくて、餌によってきた小魚を狙うわけです。この婆さんは、婆さんで誰か近くに人が来ると餌を撒くのをやめてしまう習性があります(笑)

2010年8月16日月曜日

にひきめのおおむらさき



暑さに負けずお出かけしてみましたが、勝てる暑さではありませんでした(^^;)

午前7時にはもう気温が摂氏30度超となっていたのではないでしょうか? バッグの中には、家から持って出て、すでに温くなっている500mlペットボトル二本分の飲み物が入っていましたが、自販機で冷たいのを買おうとしたら全く冷えていないやつが転がり出てきました。

先月末にオオムラサキを見ることができた足利の迫間自然観察園に再び行ってみました。半月前と同じ3種類程の蝶がお食事に集まってきていました。幸いにオオスズメバチはいませんでした(^^)

木蔭にいても汗がとまりません。風は弱くて、日差しはどんどん強烈さを増している感じでした。

前回よりも少し長くいましたが、残念ながらオオムラサキは現れませんでした。園内は、草刈りがされていました。他に全く人は来ていませんでした(^^)

隣のあしかがフラワーパークも人影ほとんど無しです。この前ここのブログに書いたことが影響したかどうか分かりませんが、ウォーターレタス(牡丹浮草)は、もう売られていません。プラコップに入れられたメダカが欲しかったのですが、水をこぼさずに持ち帰る自信がないので、買いませんでした。

午前中だけで3リットルくらいの水分を摂りました。正午にはもう帰途に、、。

ママはいつでも崖っぷち



『雨月物語』「浅茅が宿」のお終いに語られる真間の手児女は姫君ではなく貧しい村娘です。このお話の主人公は、「勝四郎」と言うのですが、「葛飾」だから「勝四郎」なのかと今、ふと気付きました。あまり意味はなさそうです。

手児奈霊神堂は、神社というわけではなく弘法寺の管理下にあるようでした。さだまさしが昭和56年に奉納したらしい「縁結び 桂の木」がけっこう生長して大きな木になってきていました。

真間山「弘法寺」は「こうほうじ」だと思っていたら「ぐほうじ」と読むのでした。江戸時代には紅葉の名所だったようです。樹齢400年以上という枝垂れ桜は、「伏姫桜(ふせひめざくら)」と名付けられています。明治時代に火災で本堂など焼失してしまったようですが、仁王門と鐘楼堂は火災を免れました。

門を入って、手彫りと分る急な石段を上がると仁王門があります。下から27段目にある石はずっと濡れていて「涙石」と呼ばれているそうですが、見逃しました(^^;)

昭和23年4月、荷風は「弘法寺の石級を登るに本堂の傍に年古りたる垂糸桜ありてこれも花爛漫たり。」と書いています。

亀井院という寺には、手児奈が水汲みをしたという井戸が現存していました。「真間の井(ままのい)」と言います。どこか他の場所で見た井戸とそっくりなのか、ずっと以前に夢で見た光景と同じような気もして、この強烈な既視感は何!?という感じがしました。手児奈霊神堂の池を見たときも同じような強い既視感がありました。

北原白秋は、『葛飾閑吟集』の序文「真間の閑居の記」に、「大正五年五月中院、妻とともに葛飾は真間の手古奈廟堂の片ほとり、亀井坊といふに、仮の宿を求む」と書いています。白秋がそこで詠んだ歌は「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」でした。

京成・国府台駅から帰ることにしました。この駅名も「こうのだい」と読むとは知りませんでした(^^;)



写真は、弘法寺の鐘楼堂です。「真間」とは「崖」のことらしいですね。

2010年8月15日日曜日

蝶と一緒にちょちょいのちょい



なんだか今日は、とてもたくさんの蝶を目にしました。まるで蝶が道案内をしてくれているようでもあり、、、お盆で終焉の地へと還ってきていた荷風の霊が手招きしてくれたのかもしれません(^^)

京成・西船駅から150円先の市川真間駅へと移動しました。万葉集に詠われた伝説の美女を祀る手児奈霊神堂と弘法寺、、、どちらも荷風がお気に入りだったと思える場所に行ってみるつもりでいました。

市川真間駅にあったイラストマップを見てなぜか、少し遠回りになりますが先に郭沫若記念館というところへ寄ってみることにしました。その記念館の読み方すら分からないのに、、(^^;)

中国・四川省楽山市出身の文学者・歴史学者・政治家である郭沫若(かくまつじゃく)は、昭和3年から約10年間、市川市に住んでいたそうで、その住居を移築・復元して記念館としたものでした。「漢詩のひとつも読めねーでどーする!!」という荷風の声が聞こえてきそうでした(笑)

掲示写真は、記念館前の公園にて撮りました。



暑くて暑くて、少し歩くと飲み物が欲しくなります。なんかよい感じの建物が見えたので、一休みしようと思ったら、そこが手児奈霊神堂でした。

手児奈は、多くの男性から求婚されましたが男達の争いを嫌ってか自ら命を絶ちました。無理難題を男達に突きつけたかぐや姫とは大違いです。勝手な想像ですが、かぐや姫は「月」という「異国」の姫であって、国力とか経済力を調べるのに必要な要求をしたということでしょう。手児奈は、「和」を貴び同胞達の争いを嫌う「内」なる姫だったのでないでしょうか。いわば、終戦記念日の今日に相応しいような姫君です(^^)v

大旱にも涸れず湛乎としてこれ円なり



荷風が散歩中に偶然見つけたという大田南畝筆の古碑を見に行ってみようと思いました。荷風が戦後に住むこととなった千葉県市川市のあたりだと分かってはいましたが、これまで具体的な詳しい場所までは調べていませんでした。

西船橋駅から歩いて数分のところにある葛飾神社と大田南畝筆の古碑とが一緒に掲載されていたブログを見かけたので、きっとそこにあるのだろうと考えました。

門前仲町は、夏祭りで賑わっていました。ここから地下鉄で十数分で西船橋駅に到着です。国道14号(千葉街道)沿いに葛飾神社はすぐにみつかりました。ところが古碑らしきものは見あたりません(^^;)

神社の由緒書きに「大正五年一月十三日 一郡総社葛飾大明神を千葉県東葛飾郡葛飾村本郷一四一番地(現 船橋市文化財 西船六丁目葛羅の井戸)の西側台地より此の地に奉還奉斉し」とあるので、探さなくてはならないのは”西船六丁目葛羅の井戸”だと理解しました。

葛飾神社の場所は「五丁目」だったので、そう遠くはないにせよ炎天下を歩き回るのは容易ではなさそうでした。とりあえず京成線の西船駅まで行こうと中山競馬場と書いてある方向に歩きました。坂を登ると京成線を跨ぐ高架になってました。線路沿いに歩ける道がないので、しばらく先を右に曲がって、今度は坂道を下りました。坂の下に大きく太いケヤキの木が見えました。なんとそこが「葛羅の井戸」でした(^^)

『断腸亭日乗』の昭和22年1月26日、、、「海神に至る途上葛飾驛の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に廣告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンケチを潤し貼紙を洗去るに、(以下碑面の文字省略)」 荷風は、携帯カメラでこれを撮ったようです。きっと碑面の文字をなでなでしたことでしょう。

この井戸の水源は、富士山のふもとまで続いているとか竜宮までだとか、いろいろな伝説がある旨書かれた船橋市教育委員会の説明看板が建っていました。

雑草に埋もれた石碑というイメージが強かったので、荷風が見つけたのが1月だったとは思ってもいませんでした。

”名づけて葛羅と曰う絶えざること綿綿たり”文化九(1812)年に建てられた石碑のお話でした(^^)

2010年8月12日木曜日

負け犬入るべからず見世物小屋



ブログなどのなかに有名人の名前を出すときに「先生」とか「さん」とか「様」とか後ろに何か付けるかどうか迷うことがありますが、これは作家や著名人「呼び捨ての慣例」というのを適用するのがよろしいのかもしれません。



酒井順子が「週刊現代」に連載しているエッセイ「その人、独身?」の317回(8月21・28日合併号に掲載)で”見世物小屋の適正価格”について書いてました。どうやら酒井は、靖国神社のみたままつりに出ていた見世物小屋に入ってみたようです。ところが「あまりに人が密集していて」、「クラクラしてきてしまった」と演目の半分も見ないで退散してしまったのでした。「メインのお姉さんが蛇にかぶりつく」も見ていないにもかかわらず「600円という妥当な価格」と書いてました。週刊誌2ページ分のネタを600円で拾って、それで「妥当」かどうかの疑問が残りませんか?(笑)

それはともかく600円妥当説には賛成です。でもその中の560円分くらいは小雪太夫が「蛇にかぶりつく」分であって、もしアングラ劇団の大だいこんを見るだけなら600円は高すぎます。でもでもでもでも、、、「異界への入口」という幻想を買うということなら、それが適正価格に思えてくるのが不思議です。



酒井順子の経歴・カタガキなどはまるで知りませんでしたが、『負け犬の遠吠え』(2003年、講談社・刊)は、古本屋さんで100円均一という「適正価格」で購入したままどこかに積んであります。まだ読んでなくて、すまぬすまぬ(^^;)

2010年8月11日水曜日

カーマは気まぐれ!?キリがない?!



国立科学博物館附属自然教育園へと行きました。

自然教育園の敷地面積は、およそ6万坪だそうですが、その半分以上が立入禁止です。江戸時代は大名の下屋敷、明治時代には陸海軍の火薬庫、大正時代には白金御料地として一般人が入ることの出来ない場所だったので、自然が残ったみたいな経緯があるようです。

去年に比べると今年は、セミが木の低いところに留まって鳴いていることがないように思えます。なにがそうさせるのか謎ですが、、、セミの総数が今年は少ないのかもしれません。と言っても種類によって地下で過ごす年数も違うでしょうし、何年か前の夏と今年の夏との複合結果ということになるのでしょうか???

あまりこれといった被写体に恵まれず、2時間くらい園内をうろうろしても撮影枚数は少ないまま、暑いので帰ることにしました。写真のカマキリは、草木にみせかけるカモフラージュで獲物を待ち構えているようです。「この屈曲が他のカマキリとは違うのよね!!」とでも言ってそうでした(^^)

自然教育園の隣の東京都庭園美術館へ寄るつもりでいましたが、こちらは水曜日が定休でした。

明日は、台風4号がどの程度の雨風をもたらすのでしょう、、。

2010年8月10日火曜日

一夜花ひとよひとよにひとりごと



今年はなかなかカラスウリの花を見ることができませんでした。

カラスウリは、「よく陽の当たる手入れをしない生け垣が大好き!!」らしいのです。花は、太陽光線が嫌いなのか、暗くなってから咲きます。そして薄明になる前に萎んでしまいます。それでも花が白い星形をしているのは、匂いによって受粉を手助けしてくれる昆虫を呼んでいるのではないということなのでしょうか???

月の光も他ならず太陽光線なのにヴァンパイアの肌を焼くほどの熱量はない、、。月も出ていない闇夜でもカラスウリの花はおかまいなしに咲いています。

例年、いつも鑑賞場所とさせてもらっている人様の生け垣が、昨年のまだ暑いうちに「手入れ」されてしまいました。実が熟さないうちに大半が刈られてしまったのです。たぶんその影響で、今年は咲く花の数が激減してしまいました。

車の通れない路地ながら駅に近いので人通りはありますが、他には誰もカラスウリの花のことなど気にかけていないようです。

秋になってどこかで拾ってきたカラスウリのタネをプランターに蒔いたりしてはいるのですが、なぜかひとつも発芽してくれないみたいです。生け垣を手に入れることを考えた方が前向きってことになるのでしょうか?(笑)

2010年8月9日月曜日

I愛藍のあいあいさぁ~!!



益子駅前の道を真っ直ぐ行き「城内坂」という大きな交差点まで来たら、藁葺き屋根の大きな建物が見えました。「県指定建造物日下田邸」と彫られた石柱がたっていたので、入って行くと「藍染工房」の表札があり、お店になっていました。

益子焼きという陶器の町に江戸時代から200年も続いている藍染屋があるとは意外でした。建物まで創業当時のもののようです。

「青は藍より出でて藍より青し」というフレーズが大好きな学校の先生というのもまだまだ数多く棲息していそうです、、、『荀子』勧学篇での意味とは別物になって、世間に広まっているのかもしれませんね。

藍染めの品は、だいぶ高価です。藍で染めることによって丈夫で長持ちするということのようなので一生物と考えればよいのかもしれませんが、Tシャツ1枚が数千円では、なかなか買えません(^^;)

2010年8月8日日曜日

笑う閻魔にどうするどうする福の神



宇都宮の慈光寺で2年前に再建されたという「赤門」を見たときに「やっぱり山門は、室町時代だよね」と意味なく呟いてしまいました。なにがやっぱりなのか意味不明ながら、、、今日は栃木県益子町にある西明寺へと行くことにしました。

明応元年(1492)に建立されたという楼門と天文7年(1538)建立の三重塔などがあります。正徳4年(1714)建立の笑う閻魔像も見逃せません(^^)

益子町へ行くのは初めてですが、そう遠くない気がしていましたが、電車での乗り継ぎが悪くて、およそ3時間かかってしまいました。交通費も往復で3000円以上かかってしまいました(^^;)

茨城県筑西市のJR下館駅から真岡鐵道へと乗り換えて行きます。元々は、JRの路線だったみたいです。日曜・祝日などには蒸気機関車が1日1往復運行しているようでした。SLに乗車するには、ちょっと高めの運賃の他に整理券(500円)が必要です。単線で、架線が存在してませんでしたから「電車」ではなくディーゼルエンジン走行なのかもしれません。

午前9時くらいに益子駅へと到着しました。他に誰も下車しませんでした。駅から西明寺までは約4キロほどあります。歩いて行く人などいないようでした。白装束・お遍路さんの団体はバスでやってきてました。

高館山(301.8m)山頂まで行きました。山道をパジャマ姿の親爺がふらふらと歩いていたりなんかして吃驚しましたが、寺が経営している病院の入院患者でした。今日もトンボの写真はいっぱい撮れました。閻魔様に舌は抜かれませんでしたが、駅へと戻る道は炎天下で陰はなく灼熱地獄でした(T_T)

掲示写真のツバメは、益子駅から100mほどのところの潰れたお店の軒下にての撮影です。

2010年8月7日土曜日

たちつてとっとと都庁



都庁にある観光案内所みたいなところで、地図とか資料を頂戴しようと都営地下鉄・都庁前駅から都庁へと行きました。たぶん1階から入ったのだと思うのですが、薄暗くてロープが張られていて、北か南の展望室にしか行けないようになってました。

バッグを開けて形式的な荷物検査をしてからエレベーターで45階へ、、、相変わらず英語圏の外国人と日本人は少なくて、いくつかの大声言語圏の言葉が飛び交ってました。

展望室から降りてくると2階で、まずは各道府県の観光パンフが置いてあるところがみつかりました。意味不明大声言語圏の言葉が分かるおねーさんが、ちゃんと配置されているようでした。宇都宮へ行ったときにバスの中で若者が広げていた地図もここで手に入りました。

都内専門の案内所で「ぐるっとパス」を2冊買っておきました。重たいくらいに地図などを手に入れました(^^)



明日は立秋だそうですね、、、暑さが最高潮で、もうそれ以上に暑くならないから「立秋」ということなのでしょう(^^;)

最近気付いたこと3つ、、、今年は、いつもより蚊に刺されていない気がします。暑さでボウフラぼうぼうする水たまりがないのでしょうか???

JALのジェット機の垂直尾翼は、赤く塗ってあるのだけかと思っていたら「緑色」のが飛んでいました。

フジテレビの車のナンバーが「88-88」でした。全部ではないのでしょうけど、謎。

2010年8月6日金曜日

身の丈88尺8寸8分、武蔵の空木は一体何尺?!



大谷観音のすぐ隣にある大谷石の採石場跡には、昭和23年から31年にかけて手彫りで造られた88尺8寸8分(26.93メートル)の観音菩薩像があります。ここは、小学生の時に遠足で来て、大谷石で造られたカエルの置物をお土産に買ったような記憶があるのですが、なんだか曖昧で既視感がまるでありませんでした。実は、この平和観音を「大谷観音」だと思っていました。

周辺の土産物屋は、ほとんど廃墟化してそうでした。少し歩くと「奇岩群御止山」が見えてきます。「陸の松島」とも呼ばれているそうです。

さらに少し歩くと「大谷資料館」があります。広大な地下採石場跡で、まるでよその国の古代神殿にでも迷い込んだような感じです。天井がずいぶんと高い!!

「完徹」後の睡魔などどこかへ退散してしまいました\(^^)/

気温は、摂氏12度となっていました。冬は、1~5度まで下がるようです。気温の割には、湿度が高そうでした。滴がぽたりぽたりと落ちてきます。

コンサート会場や結婚式場としても使われているようでした。軍需工場として使われていたところや現役の食料貯蔵庫となっているような公開されていない部分を含めると、とんでもない広さになるのでは???

床は濡れていますし、ゆっくりと座って寛げるような場所はありませんでした。ストロボを使って写真を撮ると「オーブ」しか写りませんでした(^^;)

地上へ戻るとムッとする高湿度の気温35度、、、カメラのレンズは内部に結露してしばらくなにも撮れなくなりました。

それにしても予想以上の産業遺産でした。

1時間に1本しかないバスで宇都宮の市街地へと戻りました。二荒山神社に寄りました。女坂が工事中でした。餃子ではなく、つけ麺を食べて帰ることにしました(^^)

2010年8月5日木曜日

餃子くうかい、店を選ばず店を誤る



先日、パソコンのデータドライブを500Gb→2Tbへと換装しましたが、同じハードディスクをもうひとつ購入して、起動ドライブも増量することにしました。OSのインストールだけならすぐに終わるだろうと高をくくって始めてしまったら、、、次から次へと想定外の手間が発生して、一睡する暇もなく朝になってしまいました。

歩いていても、ふと睡魔が景色を歪めてしまいます。圓朝が取材で宇都宮を歩いた頃には、現存する旧篠原家住宅はまだ建てられていなかったかもしれません。大黒柱は、もの凄く太くて高くて、クレーンもない時代にどのように立ち上げたのでしょう???蔵の梁には「嘉永四年」と書かれていました。床に寝そべって、その文字を写真に撮っていたら、眠ってしまいそうになりました(^^;)

JR宇都宮駅前からバスに乗って「大谷石」の産地へと行くことにしました。駅の西口からまっすぐでした。幅の広かった道路も作新学院の前を過ぎたあたりから普通の田舎道になりました。30分ほどで、大谷観音に着きました。

弘法大師が洞穴に刻んだという日本最古の石仏があるお寺です。昔むかし、湧水に毒を流す蛇が棲んでいて、人々はこの地を捨てようとしていたそうです。このことを知った弘法大師が、毒蛇の居るところへ入ってゆき、十余日後に毒蛇を退治したと言って立ち去りました。人々が行ってみると千手観音が光り輝やいていたのだとか、、。他にも9躰の石仏が彫られています。日本全国に残る弘法大師の伝説は、どれも途轍もないスーパーマン噺ですが、地元宇都宮の人々は「そんなことナベサダうそだべさ!!」などとはけっして言わないことでしょう。

石仏の彫ってあった場所のすぐ下からは、11000年前の縄文人骨が何体か出土しています。この人骨は宝物館に展示されていました。



(掲示写真は、宇都宮市内の金属屑屋さんらしきところで撮影)

2010年8月4日水曜日

因縁話の行き着くところ

昨日は、谷中・全生庵で三遊亭圓朝(1839~1900)の墓参りもしたので、『怪談牡丹灯籠』の結末の舞台となった地・栃木県宇都宮市へと行ってみることにしました。”ジャズと餃子の街”ですが、どちらも関係なくて、ごめんなさいと東武宇都宮駅には午前7時15分の到着でした。

美少女・お露の死霊に萩原新三郎が取り殺されるという有名な怪談幽霊物語は、全体の噺からするとほんの一部でしかないようです。お噺は「本郷3丁目」から始まります。お露の父である飯島平左衛門の後妻・お国と、お国の愛人・源次郎が共謀して平左衛門を殺害し、逃亡の末にたどりついたのが宇都宮でした。長い長い因縁話です。

本文は、「立退く道は宇都宮の明神様の後山を越え、慈光寺の門前から付いて曲り、八幡山を抜けてなだれに下りると日光街道、それより鹿沼道へ一里半行けば、十郎ヶ峰という所、それよりまた一里半あまり行けば鹿沼へ出ます、それより先は田沼道奈良村へ出る間道、人の目つまにかゝらぬ抜道」となってます。「明神様」が具体的にどこを言っているのか分かりませんでしたが、歩いてみると二荒山神社のようです。とりあえず見つけるのは慈光寺ですが、毎度毎度下調べがテキトー!!なので、駅から栃木県庁の西側を通って、八幡山公園に入ってしまいました。東京タワーの模型を間違って組み立ててしまったような宇都宮タワーがありました。9時から200円払えば展望台へと昇れるようでした。公園内を一巡りしましたが、たいへんな暑さになってきました。

JR宇都宮駅に近いところにある明治28年(1895)に建てられたという商家・旧篠原家住宅に寄るつもりでいたので、そちらの方向に向かったところ途中で大きな赤い門がありました。これが2年前に再建された慈光寺の赤門でした。そこから「十郎ヶ峰」へと猛暑の中を6キロ歩いてゆく元気はありませんでした。「峰」と言ってもわずかに地面が盛り上がっているだけの場所だそうです。八幡山の山頂には、三角点も設置されていました。標高158.7mでした。

2010年8月3日火曜日

お足がなくて、うらめしや~



透明感のある碧眼が超~かわいい写真のトンボは、体長が3センチもないくらいでした。薄暗い木蔭でしたので、写真を見るまで色はよく分かりませんでした。近くにお仲間がいるということもなさそうで、、、たぶんほとんど人の目に触れることはないのかもしれません。『借りぐらしのアリエッティ』という映画はまだ観ていませんが、人に姿を見られてはならないという設定のようですね。

もうずっと前の夏ですが、、、バンド仲間と長野の避暑地で合宿練習をして帰る途中、遊園地に寄りました。そこで、みんなでお化け屋敷に入ろうということになったのですが、キーボードの子が「なんでお金を払って恐い思いをしなけりゃならないの!?」と言い出したのでした。とても「新鮮」な考え方に思えました。ジェットコースターなどでも同じようなことが言えるかもしれませんが、わたし自身は微塵もそんな風に考えたことがありませんでした。また別の事柄でしょうけど、なぜ悲劇は人を魅了するのでしょう、、。

今日は、谷中の全生庵へ幽霊画を見に行きました。昨年は、初日の8月1日に行ったので次から次へと人が来ていましたが、今日は午前10時の開場を待って入ったら他に誰も来ていませんでした。間もなく若い女の子が一人入って来ましたが、狭い部屋なのにすぐに消えてしまいました。「もしかして幽霊?」と一瞬思ったのですが、もぎりのアルバイトのようでした。30分ほど貸し切り状態で39点の幽霊画を見物できました。

大名時計博物館へ寄ってみましたが、ここは7月から9月までは毎年夏休みのようで、休館中となっていました。

2010年8月2日月曜日

もしかしてオオムラサキ!?



標本ではなく生きているオオムラサキが見たい!! と子供の頃からずっと思っていました。一応、それが実現したのは、去年だったか一昨年だったか、、、東京都の下水道場・三河島水再生センター上の人工地盤上にできた「荒川自然公園」内のプレハブ「檻」のなかでした。

武蔵嵐山町の「オオムラサキの森」には3年越しで通ってもオオムラサキどころか、どこにでもいるような蝶すら遭遇できませんでした。

まるっとしたクヌギどんぐりを拾ってきては、発芽させてますが、これが生長してクワガタやオオムラサキが集まるようになるまえに植えた人間のほうが死んでしまいますね(^^;)

一昨日、足利市内で思いがけずオオムラサキに遭遇できました\(^^)/

「あしかがフラワーパーク」の生け垣から数メートル離れたところでした。最初、木に留まっていたときは、羽根を閉じていたので、とっても地味な蝶に見えました。掲示した写真は、同じ個体です。

樹液に集う昆虫たちは人間のことなど「眼中」にないらしくて、数センチ離れたところまでカメラを近づけて、ストロボ発光させても、なんのリアクションもありませんでした。近付きすぎてカメラのレンズでオオスズメバチを一発小突いてしまいましたが、逆襲されませんでした(^^)



2010年8月1日日曜日

たまちゃんの抜殻図鑑



セミの抜け殻はよく目にしますが、トンボ(ヤゴ)の抜け殻はほとんど見たことがない気がするのは、地上にあるか、水上にあるかの違いだけなのでしょうか???

写真の抜け殻からどんなトンボになったのでしょう、、、日光中禅寺の立木観音を連想してしまいました。

昨日「フォーマットもずっと同じところをどぐらまぐらしているのかもしれません。」と書いてみましたが、意味が通じてますか?(笑) 「ドグラマグラ」の「意味」をネットで検索すると「堂々巡り」がなかなかでてきてくれないみたいです。先週刊の「週刊現代」の書評欄で中野翆が九州の方言で堂々巡りという意味だと書いてました。

知人のブログから夢野久作『ドグラ・マグラ』が”青空文庫”でも読めることを知りました。若い頃に本は買いましたが、通読できていません。いつか読み通せる日が来るでしょうか、、堂々巡りしても埴谷雄高の『死霊』よりは時が遅く流れることもないでしょうし、、(^^;)



某テレビ局前は、毎日朝から大勢の人がならんで待っています。今日は、日曜日の朝なので、お台場海浜公園をぷち散歩しました。テレポートブリッジから見下ろせる首都高速では、乗用車が裏返しになってましたが渋滞は発生してませんでした。

このわざわざ吊り橋にする必要もなさそうな歩行通路には、スズメがいっぱい棲んでいるみたいです。お台場地区には、瓦屋根などどこにもなさそうですが、スズメも近代的住居を手に入れているのかもしれません。

海浜公園では、よくスズメが砂浴びをしているのを目にしますが、不思議なことに100%砂の砂浜で砂浴びをするのではなく、砂浜が途切れたあたりのもっと細かい土が混ざっている所がスズメたちのお気に入りのようです。たぶん水浴びのほうも海ではしないのでしょうね???



8月になったので、谷中の全生庵では、幽霊画が公開になっていることでしょう、、、幽霊が「まるで生きているかのように」描かれていますよ!!(爆)