2011年12月31日土曜日

マンガン鑛で満願叶え!!


先日、栃木県鹿沼市「南摩」のダム建設予定地を歩いてみたときに偶然見つけた「加蘇鑛山」が気になったので、今年の歩き納め(?)を兼ねてまた行ってみることにしました。
東武日光線・新鹿沼駅には、午前7時5分の到着でした。電車はとても空いていて一車輌に1~2人ずつしか乗っていませんでした。昨日のような強い風は止みましたが、寒い朝でした。
日陰のところは、霜で真っ白です(写真・上)。
「上久我石裂」行きのバスは、新鹿沼駅前を午前8時13分発なので待っていないで歩くことにしました。今日は地図を持つのを忘れてしまいましたが、半分も行かないあたりでバスに抜かれました。
およそ3時間、距離はたぶん12キロ以上あったかもしれません。やっと加蘇鑛山に着きました。前回は気付きませんでしたが、通洞抗入口の左側の柱にには「昭和十六年七月竣工」、右側には「東京今井鑛業所」と彫られていました。この通洞抗がある左側から少し山へ入るとコンクリート造りの廃墟がありました。階段の右側(写真・下)にあるのはトイレのようでした。手洗い場らしきものが見えています。
この鉱山では、世界で一番美しい「ロードナイト(薔薇輝石)」が産出されていたのだそうです。廃墟の周辺には、黒っぽい石がたくさん落ちていました。普通の石よりも重たい感じでした。この石にマンガンが含まれているということなのでしょうか???
道路に戻って、加蘇山神社の方まで行こうかとうろうろしていたら、、、わざわざ車を駐めて爺さんが降りてきて、今この辺りでハンターが鹿を撃っているので危ないから、向こうへ行くなら車に乗せて行くと言ってくれました。丁重にお断りして、川原にロードナイトでも落ちていないかとちょっとだけ探してみることにしました。岩に付着した水は、凍ってつるつると滑りました。
帰りは半分くらい駅の方に戻ったところからバスに乗りました。歩くと3時間かかるところをバスは30分(300円)です。



2011年12月30日金曜日

春を待つ


なんだか朝からずっとびゅんびゅん冷たい風が吹き荒れていた一日でした。
窓辺に置いている鉢植えの植物は、ときどき向きを変えてはいるのですが、花が咲く時期に日光の当たっている側にだけなぜか花が咲きます。
「新春」は、あと一日ちょっとでやって来ますが、、、暖かい春はまだまだ先です。
「ダイバーシティ東京」の建物ができて、お台場から富士山の見える場所が減ってしまったような気がするのですが、よく考えたらこの新しい建物の屋上にでも上がればよく見えるのかもしれません。傍らでガンダム像がお披露目の春を待っています。



この爺さんは、歩くことが大嫌いなのか、縁側に腰を下ろしたままひなたぼっこを決め込んでいます。
「清澄庭園」へと行ってみたら、年末なのでお休みでした。

らだんすがすんだら



今年8月のことになりますが、ダンス系のビデオクリップを60本ほど「Dailymoyion」にアップロードしたあたりで「なぜこれが?!」という内容のものが規約違反に該当するとしてアカウント停止になってしまいました。YouTubeの場合は、内容に問題のあるものだけが削除されますが、Dailymotionでは同一アカウントでアップロードされたものが全て削除されてしまいます。

2011年12月29日木曜日

檻の中の歩道


11月15日に国土交通省関東地方整備局、東京港湾事務所、東京都港湾局から「東京港臨海道路(東京ゲートブリッジ)」が来年2月12日に部分開通との発表がありました。
「開通式」は、その前日に行われるとのことですが、詳細はまだ明らかにされていません。2月4日と5日には、サイクリング2000人、ランニング5000人、ウォーキング8000人を募集しての有料イベント(参加費2000~3000円)もあるようです。
「歩道」は存在しないのかと思っていましたが、写真のような円筒状の”昇降施設”によって都心側だけにある歩道へ入れるようです。レインボーブリッジの場合は、車は無料なのに歩道は有料で始まったようですが、こちらはたぶん無料でしょう???
昇降施設は、若洲側と中央防波堤側にありますが、後者は歩行者は通れない「東京湾第二航路海底トンネル」(片側車線だけで45ヶの監視カメラが設置されています)を抜けないとお台場方面に行けないので、たぶん閉鎖されたままかもしれません。写真のように頑丈そうなフェンスで檻のようになっています。折り返して若洲側に戻ると少なくとも10キロくらい歩くことになります。レインボーブリッジは、1.7キロで両側にすぐバスや電車がありますが、若洲の昇降施設まででもだいぶ距離がありそうです。

2011年12月28日水曜日

今年の”テッペンタテタカナ!?”


先に書きましたが、”パーソナル・ベスト・ビュー・オブ・ザ・イヤー”は奥日光・小田代ヶ原の水没です。そして、今年最も遊びに行った群馬県桐生市を”パーソナル・ベスト・シティ・オブ・ザ・イヤー”にしたいと思います。その桐生市出身の歌手・夏川陽子さんが”パーソナル・ベスト・ミュージック・オブ・ザ・イヤー”に決定です\(^^)/
いちいちカタカナ書きすると長くなってしまうので省略しますが、、、映画は平野勝之『監督失格』、本は雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版)あたりかなぁという感じです。
受賞の皆様を来年以降もささやかながらも応援してゆきます(^^)v

2011年12月27日火曜日

To be to be to nbi!!


昨日、「YOKOSUKA 軍港めぐり」の船上からスカイツリーだと思って何枚も写真に撮ったものは、どこかの工場の煙突でした。でも一枚だけスカイツリーが写っていました(^^)v
横浜八景島から対岸に見える住友の造船所が同じくらいの大きさで横須賀側から見えましたが、帰宅してから地図を見るまで、まるで位置関係が謎でした。
三笠公園からは、すぐ近くに「猿島」という”無人島”が見えていました。冬の間は、土・日・祝日しか船がでていないようでした。船で10分、料金は往復で1200円です。
浦賀で旅館・徳田屋跡を見て渡し船に乗ってみた後、、急にお腹が空いてしまったので、コンビニでパンを買って、それを食べ歩きしながら浦賀駅へと向かいました。パンを半分くらい食べた頃、左後方から何かが通過してゆきました。「鳶」が右に旋回しながら飛んでゆきました。ふと気がつくと左手に持っているのは、パンの袋だけでした。お見事~!!と拍手してしまいそうなくらい上手なカッパライ飛行でした(笑)

2011年12月26日月曜日

急な坂道駆け上ったら……



”ここは、よこぉすかぁ~♪”
昨夜放送された三年越し公開NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』最終回を都合で観ることができなかったので、横須賀に復元展示されているという戦艦「三笠」を見に行くことにしました。
京浜急行・品川駅で「記念艦三笠きっぷ」(品川駅での販売額は1400円)を購入しました。ハンカチまで付いてます。この切符は、来年3月末までの発売のようです。
今朝は、乗るつもりでいたバスがバス停で誰も待っていなかったので、すぐ目前で通過されてしまいました。この数秒の遅れが、横須賀到着を小一時間遅らせることになりました。三笠きっぷでは、追浜駅から京急久里浜駅・浦賀駅までは、フリー区間として乗り降り自由になってました。とりあえず「三笠」に一番近そうなので、横須賀中央駅で下車しました。午前10時47分でした。
船なので海に浮いているか、海の中に置いてあるものだと思っていたら公園の片隅に埋め込まれていました。
デッキ上には、東郷平八郎・司令長官、加藤友三郎・参謀長、伊地知彦次郎・館長、秋山真之・参謀の立ち位置にネームプレートが置かれてました。
午後1時発の「YOKOSUKA 軍港めぐり」という船に乗るつもりでいましたが、三笠公園は通り抜けられない公園だったので、出港場所をやっと見つけた時に船は出航してました。1時間待って乗船しました。45分間ほどで、1200円です。三笠きっぷを見せると200円引きになります。
自衛隊の潜水艦を5つも見ることができました。米軍の空母・ジョージワシントンが停泊していました。全長333mは、東京タワーの高さと同じですね。でも戦闘機は、陸上の基地に置いておくらしく甲板上には見えませんでした。
浦賀にも行ってみました。煉瓦造りの浦賀ドッグの片鱗でも見えるかと思ったのですが、高い塀にはばまれて殆どドッグ内部は見ることができませんでした。
浦賀では、1回150円の渡し船に乗ってみました。何時に出るのかと訊いたら、客が来れば1人でも出発してくれる船でした。対岸まで1分くらいで到着でした。



2011年12月25日日曜日

2011年12月24日土曜日

通洞抗跡と義経千本「桂」




県道177号線は、「法長内橋」というところで県道240号線にぶつかりました。右に十数キロ行けば駅がありますが、左へ行って「上久我馬返」のバス停で時刻表を見ました。午前11時半でしたが、バスが来るのは午後1時です。
さらに2キロ余り先にあるバスの終点・石裂山(加蘇山神社)まで行ってしまうことにしました。午後1時のバスは、上久我馬返で折り返してしまうので、駅の方への戻りバスは午後2時55分発です。
地図には記載されていませんでしたが道路脇に「加蘇鑛山大通洞」というものを見つけました(^^) 鉄の柵で閉鎖されていました。覗き込むと下には水が溜まっていて、天上までの高さは1メートルちょっとくらいしかありませんでした。どれほど奥まで続いているのか分かりませんが、けっこう長そうでした。足尾銅山では、東京から福岡くらいに相当する距離を掘ったそうです。
石裂山バス停があるところは、昭和の半ばに廃校になった小学校で、今でも小さな校舎が残っています。加蘇山神社の先には「石裂山回遊登山コース」(全周255分)があります。一度だけ歩いたことがあります。その時にも看板があったかどうか記憶にないのですが、NHKの大河ドラマ「義経」ロケ地となったとのことです。「義経」は全部録画してあるので、一体第何話のどんな場面を撮ったのか知りたいところですが、そんなことは掲示看板に書いてありません。
回遊登山コースを歩いている時間はないので、推定樹齢1000年だという「千本桂」だけ見に行くことにしました。その途中に小さな滝がふたつあります。どちらも微妙に「滝行」には向かない感じです。
もの凄い土石流跡で登山道が分断されていました。「千本桂」の近くも荒れているような感じになっていました。
バスは、出発時刻の15分くらい前に来ました。乗客は誰も乗っていませんでした。運転手さんは、今日は祝日だから誰も乗る人がいないというようなことを言ってました。その運転手さんの話では、南摩にダムを造っても水がないので、地下30メートルくらいのところに管を通して、日光の大谷川から持ってくるのだそうです。
バス停のすぐ近くに蔵が二つ、大きな門と玄関のある廃屋が見えます。そこは、内務大臣をやっていた人の家だと運転手さんが言ってました。その隣にはわりと大きな寺もありますが、現在のこの辺りには6人しか住んでいないそうです。



2011年12月23日金曜日

やんばなんまいだぁむだだめだぁ


目覚まし時計は設定時刻に鳴ったはずですが、一時間ほど寝過ごしてしまいました。たぶん”無意識”の側は、家の外から聞こえてくる渦巻くような凄い風の音をちゃんと聞いていて、「今日は外へ出掛けるのは止めておこう!!」と決めたのかもしれません。歩いても歩いても繰り返し同じ場所へと戻ってしまうというような夢を見ていました。
「八ッ場ダム」を建設継続するしないと大騒ぎしていますが、マスコミが取り上げないだけで似たような事例は日本中に山盛り存在するのかもしれません。
今日は、栃木県鹿沼市を歩きます。祈願したら死んだ赤子が三日後に生き返ったという「生子神社」が近くにある東武日光線・樅山駅に午前7時35分に到着しました。無人駅です。他に下車した人はいませんでした。
戦国時代の頃には、「南摩(なんま)氏」の支配下にあったという旧・南摩村のほうへと向かいます。この村の住民70数戸は、昭和の時代に転居させられたそうです。南摩村は、いずれ「ダムに沈む村」なのです。
栃木県内に入ると電車から見える景色がなんだか白っぽくなるのですが、田畑や野原が一面霜に覆われるからのようです。富士山も筑波山もハッキリと見えていました。男体山の頂上付近には、雲がかぶさっています。湯元温泉の辺りは今日もいっぱい雪が降っていそうです。中禅寺湖畔や日光の市街地にまで雪がそうそう降らないのは、男体山が高すぎて雪雲が越えられないからなのだそうです。
吹き荒れていた強い風は収まりましたが、かなり寒い朝です。川の水のほうが暖かいせいなのか、まるでお湯でも流れているかのように湯気が盛んに立ち上っていました。
県道15号線が「南摩川」を越える手前で、県道177号線を北上します。この道路は最近整備されたようですが、セメントをぐるぐるしながら走る車輌が何台も往復しているだけで一般車はめったに通っていませんでした。
樅山駅から2時間ほど歩いたところに赤い文字で「ダム建設反対」と書かれた古く傷んだ立看板がひとつあったので、そこでやっと場所は間違っていないことが確かになりましたが、南摩川は小鳥が歩いて渡れそうな僅かな水しか流れていませんし、素人目ではダムを建設できそうな場所には思えませんでした。
多くのミキサー車は、「思川開発付替県道1号トンネル工事」のものでした。出来たての太い道路があって、ほとんど交通量がないのにトンネル建設をしているということは、、、ダムを造ると今歩いている道路がダムに沈むということなのでしょうか???
転居させられた家の土台だけ残っているとか、井戸だけ残っているということもなくて、見落としてしまうところでしたが人が住んでいたという痕跡は、小さな「弁才天」と彫られた石碑があっただけでした。その前を飲めそうなくらいに澄んだ水が流れていました。その少し先の切り通しから下り坂となり、今も人が住んでいる別の集落になりました。午前11時を過ぎていました。
今回は、「鹿沼市・鹿沼市観光物産協会」が無料で配布している”鹿沼市観光ガイドマップ・かぬまで気まま時間”を参照しながら歩きました。

(写真上…男体山と南摩川、写真下…ダムに沈む村の弁才天)

2011年12月22日木曜日

ビッと積もれば山寺になる!?


今日は、「冬至」です。ちょっと間違って憶えている人もいるようですが、、日の入りが一番早く、日の出が一番遅いという日ではありません。
お日様の出ている時間が短くて、落葉樹はみんな葉を落としてしまって、「夏至」の頃に比べたら光合成によって出来上がる酸素の量はとっても少ないと思えるのですが、足りなくなってしまったりしないのでしょうか???
三ヶ月ぶりくらいで横浜市にある「八景島シーパラダイス」に行きました。午前11時から始まる一回目の動物ショーにぎりぎり間に合いました。ショーが行われる一番大きいプールは、屋根が付いているだけで外と変わりがないので、今日はとても寒い中での見物でした。プールから湯気など立ち上ってはいないので温水を使っているというのではなさそうです。
明日からは三連休なのでいっぱい人が来るかもしれませんが、今日は人が少なくて閑散としてました。でも空いているほうが水槽の中の魚をゆっくり見られて、ちょうどいい感じでした。
奥日光からは各駅停車の電車で帰ってきますが、八景島から「特快」とか「急行」という電車を乗り継いでも余計に時間がかかります。なので年間パスポートがもったいないくらいのお出かけ回数になってしまいます。
帰宅して、今日撮ってきた写真をパソコンに保存しようとしたら、途中でハードディスクが満杯になってしまいました。何度か購入している外付け2テラバイトのハードディスクは、タイの洪水の影響なのか前に買った時より4、5千円も値上がりしてしまってます。光学ディスクに書き込むのも手間がかかって面倒で、、困ったものです(^^;)

2011年12月21日水曜日

戦場のヘリコプター


光徳入口から戦場ヶ原を横切る木道が新しくなっていました。取り壊した古い木道の材木などは束ねられてあちこちに置いてありました。時折、ブリザード風に激しく氷の粒が横殴りに飛んできたりしているので、暖かくなるまで放置しておくのかと思ってました。
「歩道整備工事」という看板がでていて”歩行者の安全をはかるため木道の整備工事を行っています。 栃木県日光市中宮祠戦場ヶ原 平成24年1月31日まで”と書かれていました。発注者は、「環境省国立公園保全整備課」です。古い木道は幅が細くて、夏場はともかく冬にクロススキー板やスノーシューで通るには危ない木道でした。
小田代ヶ原で昼食を食べたり、一夜にして現れた巨大スケートリンクにびっくりしている時に「貴婦人」の後ろ側を右へ左へ爆音をたてて何度も往復しているヘリコプターが見えてました。何をしているのか分かりませんでしたが、、、先ほど通った戦場ヶ原の壊した木道を運び出しているのではないかとイメージが結びついたので、また戻ってみると廃資材を吊り上げては、三本松の駐車場のあたりへと運んでました。
手前で見物していたかったのですが、作業のおっちゃんたちが早く通れとせかすので作業しているところを通り過ぎてしまったら写真を撮るには「逆光」になってしまいました(^^;)
だいぶ離れた場所でもホバリングするヘリコプターからの風はけっこう強いのでした\(^^)/

2011年12月20日火曜日

一夜にして消え、一夜にして現る!?まじかる奥日光


昨日、湯ノ湖の水面は半分くらい凍っていたと書きましたが、一夜にして消えてなくなっていました。
たぶん山の方から強い風が吹いて波が生じ、まだ十分に厚くなっていない氷をを割って、それをまた風と波とが湖岸へと運んだのではないかと思います。
風下の湖畔には、幾重にも折り重なった割れガラスの破片のような氷がギシギシと音を立てておしくらまんじゅうしてました。まるでオホーツク海流氷のミニチュアのようでした、、と言っても本物の流氷はまだ見たことがありません。
小田代ヶ原にもまた行きました。天候は、昨日と同じで「雪」に変わりはありませんが、昨日よりずっと視界良好でした。
驚くべきことに昨日は「無かった!!」はずの巨大スケートリンクみたいなものが「小田代ヶ原の貴婦人」の手前に広がっていました。全面凍結湖です!!
やはり大雨で溜まった水はなくなってはいなかったのでした。昨日は、枯れ草の上に雪が積もっているように見えましたが、強い風が吹いて雪を吹き飛ばしてしまったようです。
よく観察すると通行止めになっている木道の下で5センチくらいの厚さに見える氷が割れたりしてました。ならば、、、春が来て雪解けとともに再び「小田代湖」が現れるということかも???

2011年12月19日月曜日

歩きにいこう、あるき日光


紅葉見物から二ヶ月ぶりで奥日光行きです(^^)v
12月の奥日光は、もしかすると一年で最も閑散としてしまう時期なのかもしれません。11月末までで、中禅寺湖の遊覧船が冬期休業となりますし、赤沼と千手ヶ浜を往復している低公害バスも運休です。スキーができるほどの積雪になるのは、年が明けてからの場合もありそうです。
もう三年生が登校していないようで、NM高校生徒の割り込みバス乗車はなくなっていました。来春になってもこのままであってほしいものです。今朝のバスには、NM高校生が27人乗っていましたが、男の子はその中の5人だけでした。かなり男女比のバランスが崩れている高校のようです。
「三本松」の売店で働いているらしいオバチャンが下車してしまうと乗客はわたしだけになってしまいました(^^;)
男体山の上の方だけ後ろから雲がかかっていたので、湯元温泉の辺りは雪になっていました。午前9時に「湖畔前」バス停で下車しました。都内へ行くのとほとんど同じ服装でしたが、極端に寒く感じるという程ではありませんでした。でも普段は使わない手袋と帽子を防寒用に持参しました。
木道などに積もっている雪はまだ1~2cmくらいなので、スノーシューやスキー板は使えません。
「湯ノ湖」は、もう水面の半分くらいが凍っていました。まだまだ厚い氷になっていないので、歩いて氷の上に乗ると割れてしまいます。
歩き出してから、、だんだんと雪がいっぱい降ってきて、バスが通過した時には晴れていた「戦場ヶ原」のあたりも雪になってしまいました。
今年の「絶景かな!!絶景かな!!パーソナル・ベスト・ビュー・オブ・ザ・イヤー」は、”大雨で水没した小田代ヶ原”であったと思えるのですが、、、残念なことに(?)すでに水は引いてしまっていました。水没によって損傷した木道は通行止めになったままでした。ちょうど小田代ヶ原に着いた時には、背景の山々がまるで隠れてしまうくらい雪が激しく降ってきました。

写真は、湯滝と「小田代ヶ原の貴婦人」と呼ばれるシラカンバの木です。

2011年12月18日日曜日

はぁはぁひぃひぃふぅふぅへぇへぇ師走の、ほっ。


ネットで帆船「海王丸」と「日本丸」との違いを調べてみたら、付属品や塗装が一部異なる程度で、ほとんど同一の船体であると判明しました。
今朝、朝日に輝く「日本丸」を撮ってきました(^^)v
お台場からは、土・日・祝日しか運行していないバスで亀戸駅前まで行き、東武電車で浅草へと向かいました。
昨日、今日、明日の三日間(たぶん曜日に関係なく毎年12月17日から19日)、浅草寺で開かれている羽子板市へ行ってみました。
なんとなく例年の羽子板市と出店場所が変更になったせいなのか、ちょっと違和感がありました。
今年の流行や世相を反映した羽子板はだいぶ少ないように思えました。

2011年12月17日土曜日

低山を極める!?


お祭りの時に天狗のような面を被った人が先導することがありますが、天狗ではなく「猿田彦神」です。ちょっとまだ原文を読んでいませんが『古事記』と『日本書紀』の「天孫降臨」のところにでてくるそうです。
息栖神社の近くに「猿田」姓が多くありましたが、日本史の中で「猿田氏」がでてくることはまずありません。つまり政治や経済の表舞台にでてはいないということです。
この猿田彦神と滅んだといわれている”「さ」の神”とは、同一なのか別なのか分かりません。「さ」を含む日本語に存在の痕跡があるだけ(?)です。たとえば、「相模」(さ+かみ)・「桜」「佐倉」(さ+くら)・「五月雨」(さ+みだれ)・「彷徨い」(さ+まよい)などなど、、。

一昨日は、栃木の大平山(341m)-晃石山(419m)-馬不入山(345m)を歩きました。いつもはそこから岩舟駅の方向へと下山してしまいます。晃石神社の拝殿に置いてあるお菓子か煎餅の缶の中に寄せ書き帳やコピーした地図が入っていて、地図は「一枚、二十円」と書いてあります。青いプラスチックの名刺入れにお金を置きます。この地図を見ると馬不入山の先に大明神山(274m)があるので、行ってみることにしました。
関東のハイキングコースは、ほとんどどこも国が昭和の時代に整備した「関東ふれあいの道」になっていますが、大明神山へと続く道は無視されたようです。それでも歩く人は多いのか、道が不明瞭なところはありませんでした。山の名前にかかわらず、山頂には神社も小さな祠もありませんでした。
晃石山からは、うっすらと富士山が見えました。高尾山から見える富士と比べるととっても小さな富士山になってしまってます。
神社の彫刻は、中国の故事などを題材にしていて一体何の場面なのか分からないことが大半なのですが、晃石神社本殿には「天狗」が彫られていました。もっと古い時代の制作かと思っていましたが、説明看板によると山火事で焼失して1825年の再建と書いてありました。
この冬は、低い山をあちこち歩こうかと思っています。素敵な天狗さんにも会えるとよいです(^^)

2011年12月16日金曜日

帰ってきたダイバーガンダム立像


寒波に包まれた日本列島です。
数日前から、船の科学館前に帆船が停泊しています。「海王丸」だと思っていたら「日本丸」でした。両方がならんでいれば間違い探しができるのかもしれませんが、ぼんやりとした記憶の中にある船の大きさもデザインも同じような感じがして区別がつきません。
帆船・日本丸が現れたのと同じくらいに18メートルある「ガンダム立像」の組み立てがはじまりました。今回も組み立て中の写真を取り損ねてしまいました(^^;)
2009年夏に潮風公園に設置されたときには、50日間ほどで400万人を超える見物客が訪れて、周辺道路もだいぶ渋滞しました。今回は、来春に開業予定の複合施設「ダイバーシティ東京」の広場に置かれます。とりあえず1年間の展示は決まっているようです。
昼間は遠くから見ても分かりましたが、暗くなってからは手前の木々にまぎれたりなどして、気付かずに通り過ぎてしまいそうな感じでした。

2011年12月15日木曜日

いどういど伝説、忍潮井


息栖神社の前には、「忍潮井(おしおい)」があります。
説明の石碑には、、、”忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり神功皇后の三年(一九四年)に造られたものと云われあたり一面海水におゝわれていた頃真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させ住民の生活の水としたもので海水をおしのけて清水が湧出しているところから、忍潮井の名が付けられたと伝えられている。水と人類とのかゝわりの中で最も古いかたちの井戸であり日本三霊泉の一つと云われております。”とあります。瓶の「形状」は、”男瓶は経二米弱、白御影石で銚子の形をしている。女瓶はやゝ小振りで土器の形をしている。”そうです。
「三霊泉」は、”常陸の忍潮井・伊勢の明星井・伏見の直井”とのことです。
さらに「伝説」が書かれています、、、”その昔(平城天皇の御宇大同二年四月(八〇九年)数キロ下流の日川地区より息栖神社が此の地に移された際とり残されてしまった男・女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を溯ぼり一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云う此の地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。日川地区には瓶の泣き声をそのまゝの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。”
「194年」という年号をどこから持ってきたのか謎ですが、これと比べたら明治神宮にある「清正井」などは、まだ出来たばかりみたいなものですね(笑)
よく分からないところは、瓶は水に流されて移動するということもありうるでしょうけど、井戸は移動しないですよね???
ところで、、宮城県塩釜市にある「鹽竈神社」は、左宮として「鹿島神(武甕槌命)」、右宮として「香取神(経津主命)」、別宮が「鹽土老翁神」です。東国三社をひとまとめにしたような御祭神構成となっています。

2011年12月14日水曜日

この里は気吹戸主の風寒し


息栖神社内に「芭蕉句碑」があります。昭和61年に神栖町教育委員会が建てた説明看板には、、、”松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(一六八七)八月十四日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。 (中略) 息栖神域の醸し出す風趣・威壊といったものを詠みあげたものであろう”とあります。
嵐山光三郎は『芭蕉紀行』(新潮文庫)で、”これは芭蕉の句ではない。”と断言しながらも芭蕉が息栖神社に来たということは”十分に考えられる”としています。芭蕉が息栖神社と香取神宮へ行ったことは、現存する文献のどこにも書いてないようです。では、教育委員は何を根拠にしたのでしょう???
芭蕉は、住んでいた家の前から船に乗って鹿島へと向かいました。水路を使えば一泊二日で到着できたようです。歩かずに船で息栖神社に寄った可能性は大ですが、やや高台にある香取神宮は曾良が行きたがっても無視したような気がします(笑)
「おくのほそ道」の旅もいきなり船で千住まで行って、そこで一週間くらい休憩してから出発したみたいです。

神々の三角定規


降っていた雨は、午前9時くらいには止んで、東京駅八重洲口を午前10時30分発の鹿島セントラルホテル行きのバスに乗りました。通常は、首都高速湾岸線から東関東自動車道へと入るらしいのですが、事故渋滞があるとのことで、首都高7号小松川線から京葉道路を通ってました。定刻より数分遅れで、鹿島セントラルホテル前に到着です。
三年越しくらいになってしまいましたが、江戸時代には大人気のツアーであったという香取神宮・鹿島神宮・息栖神社を参拝する「東国三社巡り」は、これから向かう「息栖神社」で完結です\(^^)/
息栖神社まで自動車向けの案内看板にしたがって歩いたらだいぶ遠回りだったようで小一時間かかってしまいました。
古くは、数キロ離れた「日川」というところにあった祠を大同二(807)年に現在地へ移したと伝承されているそうです。なぜか大同二年に創建された神社は数多くあります。そして大同年間は、天変地異が多発した時期でもあります。
「神栖」、「息栖」と「栖」の字を充てていますが、地形から判断すれば「洲」であることは明白なので、神栖は「上の洲」、息栖は「分岐点にある洲」という意味ではないかと思いました。カタカナで「イキス神」と書くとまるでエジプトあたりの神様のようです(笑)
三社を線で結んでみるとほぼ二等辺(直角)三角形になります。「日川」から線で結ぶとやはり二等辺三角形になります。鹿島神宮の要石は、大鯰の頭を押さえ込み、香取神宮の要石は大鯰の尾を押さえ込んでいるそうです。息栖神社に要石はありませんが、力石が二つころがっていました。たいてい要石は人が持ち上げられそうな大きさで、力石はめったに持ち上げられないくらい大きいのはなぜなのでしょう?
香取・鹿島は遠くからやってきた神で、要石はなくても「扇の要」となっているのが古来からの土着していた神である息栖なのかもしれません。
息栖神社の周辺にある家々の表札を見ると、、、「猿田」と「宮崎」姓が多くありました。猿田は、猿田彦神となんらかの繋がりがあるかもしれません。もうとっくの昔に忘れ去られてしまったのでしょうが、神を守っていた一族の末裔であるということもなきにしもあらずです。
息栖神社は、神栖市の市街地に背を向けるようにしてありますし、なんでこんなに何もないようなところに建てたのかと思いましたが、それは現代の陸路に惑わされているからで、神社のすぐ正面が常陸利根川でした。もっと昔は海だったかもしれません。江戸時代のツアー客はみんな水路でやってきていたのでしょう。そう考え直すと多くの船が幻視できそうになります。
社殿は、享保八年に建てられたものが昭和35年に焼失してしまい、昭和38年に建てられたそうです。鎮守の森は、散策路などなさそうでした。

2011年12月13日火曜日

そろそろブログを始めなさい!?


昨夜は、2006年の年末からなんとなく続いている「7人の腐貞女子」忘年会でした。顔ぶれは、2007年に公開になったある映画の宣伝に携わった人達です。毎年、新橋あたりで集まっています。年齢は、三十路の手前からアラフォー越えといったところで、「7人……」という名称は実際には使ってはいませんが、男を喰っていそうな人ばかりなのです(笑)
そこで口をそろえて(?)言われたのは、「そろそろブログを始めなさい」でした(^^;)
もうすぐ一年が経過しますが、昨年末にいわゆる「公式ブログ」という営業用のブログを閉鎖・削除しました。半分以上は、事務所の人がテキトーに更新してくれていたブログでした。
つまり、めでたいことにこのブログの存在はまだ誰も気付いていないということです\(^^)/

2011年12月12日月曜日

らーめんと福引き


特に美味しいというほどでもないのですが、近所なので年に二,三回は食べに行くチェーン店系のラーメン屋さんがあります。ここはほとんど全てのラーメンのスープを「あっさり東京風白どんぶり」と「こってりとんこつ黒どんぶり」とのどちらかを選ぶことになります。
「こってりとんこつ黒どんぶり」で「あっさり塩味野菜ラーメン」を注文してみたのですが、、、「こってり」なのか「あっさり」なのかまるで分かりませんでした(^^;)
大きな買い物をしたわけではないようでしたが、母が地元商店街が開催している年末大売り出しの福引き券をいっぱいもらってきたので、がらがらっと回転させると色の付いた玉がころりとでてくる福引き抽選をやってきました(^^)v
もらった券は41枚あり、2枚で1回がらごろ機械を回せるので、20回できることとあいなりました。赤い玉がでるとハズレです。1等は、1万円商品券です。
結果は、、、外国製のボックスティシュー3箱と500mlペットボトル茶4本でした。

2011年12月11日日曜日

せいらあまじっく



「ミュージカル美少女戦士セーラームーン」が終わってしまったのは、2005年の1月でした。大好きな公演だったので、とても残念でした。

セーラー服は、魔法の服でもあります。着ていれば、夢がみんな叶うような気がしてきますし、セーラー服の汚れは、全ての絶望感の象徴であるような感じもします。そしてどんな趣向の痴漢をも引き寄せてしまう魔力は強烈です。



あかあかやあかあかあかやあかあかや









日が暮れてからちょっと空に薄雲が広がったりもしたのですが、月食が始まる頃には、ちゃんと晴れてくれました。
でもあまりに寒くて、皆既月食がまだ半分という午後11時半くらいで、暖かい部屋へと戻りました。
今回、月の撮影に使用したコンパクトカメラは、インドネシア製の「ニコン・クールピクスS9100」でした。太陽を反射している水面にカメラを向けるとすぐにシステムエラーで固まりますし、「約0.16秒快速オートフォーカス」は、迷いに迷ってとてもピント合わせが遅いので、飛ぶ鳥などはちゃんと撮れません。ところが満月に向けてみたところ、しっかりと濃淡が写っていますしコンデジ・オート撮影としては、とてもがんばってくれました(^^)
しかし皆既になるともうピントを合わせることが不能になってしまったので「シーンモード・打ち上げ花火」(シャッタースピード4秒)にしてなんとか撮影しました。

撮影時刻は上から 21:51  22:03  22:15  22:37  23:00  23:20  です。