2012年8月31日金曜日

奥日光は秋の風



睡眠4時間足らずでまた電車に乗って奥日光へと向かいました。足は筋肉痛になりませんでしたがショルダーバッグで2リットルの水分を携行したので肩凝りになってしまいました。500mlのペットボトル2本を買い足したので歩行中に3リットル消費したことになります。
男体山は上半分がずっと雲に包まれていたので戦場ヶ原や小田代ヶ原など平らなところを歩くことにしました。間もなくリンドウが咲きそうでした。
前回行ったときにヘリコプターで資材や生コンを運んでいましたが、湯滝のほうから泉門池へと向かう途中にある「小田代橋」の手前に新しい橋を造っていました。橋梁は今までにない鉄骨でした。その橋のところに「カワマスの産卵場所」という新しい説明看板が設置されていました。10月下旬から11月中旬に雌が尾びれを振って川底に産卵床を掘る公道が見られるなどと書いてありました。
前日より3時間早いバスで帰ることにしました。中禅寺温泉バス停では、補助席を使っても乗りきれないほどの乗客数となっていました。
日光駅のあたりは雨が降っていました。駅前でソフトクリームを食べてから帰ることにしました。今月のぷぁぱぁチャージつぁ終了です。




鷹みの見物!?



シルエットだけでは鳶なのか鷹なのか、あるいは烏なのかも分からないことがあります。奥日光・湯滝の上空を飛んでいた大きな鳥は、横須賀や鎌倉あたりで旋回している鳶よりは大きいように見えました。一度だけすぐ目前まで飛んできてくれたのですが写真撮影は間に合いませんでした。
サンシャイン水族館で9月2日まで一日2回行われている「バード・フライングパフォーマンス」に出演している鷹嬢はパフォーマンスを放棄して”高みの見物”がお好きなようでした。





開かずの避難小屋



写真1枚目は、五色山の山頂(2379m)から撮ったもので、正面・右側が白根山(2577.6m)です。左の方にポチっと見えるのが「避難小屋」です。避難小屋から白根山頂までは所要1時間とのことですが、湯元温泉へと戻るルートでは最終のバスに間に合いません。どこかに宿泊して早朝に出発すれば大丈夫そうです。
五色沼は、大目に見て水面が三色くらいになっていました。湖畔の水はたいして冷たくありませんでした。
避難小屋の入口は開かずの扉のようで押しても引いてもびくともしませんでした。冬は積雪で入口が半分くらいまで埋もれてしまうのかもしれません。入口戸の横にある鉄梯子を上ると窓は施錠されていなくて開くと向こう側に階段がありました。まるでアドベンチャーゲームの謎解きのようです(笑)。






2012年8月30日木曜日

前白根、名前知らね蝶が舞う



今年6月4日、残雪に行く手を阻まれながらもなんとか奥日光・前白根山(標高2373m)に登ることができましたが、すぐ下に見える五色沼まで降りてゆくことができませんでした。
今回は、5月31日に「国境平」までしか行けなかったルートで登りました。
五色山(2379m)山頂への到着が午後1時10分頃でした。予定では前白根から五色沼へ下るつもりでしたが、ここから五色沼へ向かい避難小屋の前を通って前白根山へ登ることにしました。やっと五色沼の水面にタッチすることができました(^^)v
湯元スキー場に至る下山道は、急坂と悪路が果てしなく続いて、、、よくこんな場所を登ったものだ!!と思えるくらいでした。あまりに大変だったので、苦しかった記憶を削除してしてしまったのではないかと思いました(笑)。まだ山を下りきっていないので、午後5時15分発のバスには間に合わないのは明らかでした。次は、午後6時25分発です。
広大なスキー場には誰もいませんでした。男体山の上に少しだけ欠けた丸い月が見えました。どこかで甲高い鹿の鳴き声がしました。あたりを見回すと遠くの方に30頭以上いそうな群れが草をはんでいました。たぶんわたしより先にシカのほうが気付いて何頭かがこっちをしっかり見ていました。進行方向の斜め左にシカの群れです。
数頭が陽動作戦(?)に出たのか群れを離れて横の方へと近付いてきましたが、わたしがシカの思惑とは違う動きをしたのか、数頭のシカは慌てて群れの方へ走って戻ってゆきました。シカの群れを追い越してバス停へと向かいましたが、、前を横切って森へ入ってしまうシカもいました。
バスは他に乗客がいませんでした。もうすっかり暗くなってしまいました。






2012年8月29日水曜日

七しか八あわせ


今日は奥日光へと出掛けました。午前5時半に家をでて、ちょっと足を伸ばしたら帰宅が午後10時になってしまいました(^^;)
なので、詳細は後日になりますm(_ _)m


2012年8月28日火曜日

荷風と歩く放水路



隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。
 わたくしはこれに因って、初めて放水路開鑿の大工事が、既に荒川の上流において着手せられていることを知ったのである。そしてその年を最後にして、再び彼岸になっても六阿弥陀に詣でることを止めた。わたくしは江戸時代から幾年となく、多くの人々の歩み馴れた田舎道の新しく改修せられる有様を見たくなかったのみならず、古い寺までが、事によると他処に移されはしまいかと思ったからである。それに加えて、わたくしは俄に腸を病み、疇昔のごとく散行の興を恣にすることのできない身となった。またかつて吟行の伴侶であった親友某君が突然病んで死んだ。それらのために、わたくしは今年昭和十一年の春、たまたま放水路に架せられた江北橋を渡るその日まで、指を屈すると実に二十有二年、一たびも曾遊の地を訪う機会がなかった。    (永井荷風「放水路」より抜粋)


「荒川放水路」は、1913(大正2)年から工期10年の予定で工事が始まりましたが、実際には1930(昭和5)年まで17年かかったそうです。荷風の「放水路」を読むと荷風自身は工事の様子を全く見ることがなかったということになります。まぁ工事中は歩こうとしても歩るかせてはもらえなかったかもしれませんね。




2012年8月27日月曜日

ないまぜにして大器晩成の立作者



「荷風と歩く深川」は実際には順番が逆で歩いてます(^^;)
最初に四世鶴屋南北の終焉の地となった黒船稲荷神社(江東区牡丹1-12-9)へ行きました。江戸時代の頃は古木が生い茂り「雀の森」と呼ばれていたそうです。
『東海道四谷怪談』の四幕目直助権兵衛は、現在の深川1-5にあたる「三角屋鋪」で起きた事件を題材にしているようです。ネット上では、深川1-3にある三角形の児童公園が三角屋鋪跡だとしている記事がいくつかありましたが違うようです。結局どこなのか分かりませんでした(^^;)
荷風が”電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃った”と書いてますが、これは五世鶴屋南北の墓です。
「深川の散歩」は荷風55歳、昭和9年です。

8月23日で終わってしまったようですが、新橋演舞場での「八月花形歌舞伎」は昼の部が『桜姫東文章』、夜の部が『慙紅葉汗顔見勢(伊達の十役)』とどちらも四世鶴屋南北の作品でした。
1959(昭和34)年11月に歌舞伎座では三島由紀夫・監修による『桜姫東文章』が公演されています。このときの桜姫役は六世中村歌右衛門でした。
四代目鶴屋南北は、1755(宝暦5)年に日本橋で生まれました。1803(享和3)年49歳ではじめて歌舞伎の作者となりました。56歳、1811(文化8)年に「四代目鶴屋南北」を襲名しました。なお初代から三代目までの鶴屋南北は役者です。
『桜姫東文章』は63歳、『東海道四谷怪談』は71歳の時の作品になります。
1829(文政12)年11月27日に地下鉄東西線・門前仲町駅から歩いて2、3分のところにある居宅(現・黒船稲荷神社)で亡くなりました。75歳でした。
南北の葬儀の時はそこから寺まで長い行列となったそうです。
門前仲町から「清澄通り」をひたすら真っ直ぐに北上すると駒形橋の手前でやや右に折れ、やがて「浅草通り」と名前が変わりますが東京スカイツリーのすぐ近くに「春慶寺」があります。寺内に入ることなく歩道脇に四世鶴屋南北の墓があります。多くの人は、南北の墓など目に入らずに墓前でスカイツリーの記念写真を撮影しています。
東京スカイツリーは、南北の墓への道標として建てられたのかもしれませんね(笑)



荷風と歩く深川(6)



冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔に改称の禍を免れた。)
   (永井荷風「深川の散歩」より抜粋)



荷風と歩く深川(5)



むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)
   (永井荷風「深川の散歩」より抜粋)



2012年8月26日日曜日

俄か水道屋さんサンバを見に行く!!


もう何日も雨が降らない日が続いているのに、、なんだか雨樋を水が流れてゆくような音がしていると思ったら暑さと経年劣化でホースが裂けて水が噴き出していました。たぶん長ければ、丸一日くらい水が出たままだったかもしれません。ホースを繋いでいる元の蛇口を閉めると水量は弱くなりましたが、蛇口も壊れているようでした(^^;)
ネットで調べたら、蛇口の中に入っている”コマ”とか”パッキン”というのを交換すればよいようなので近所のホームセンターへ買いに行きました。なぁんと新品の蛇口丸ごとと蛇口の中に入っている部品だけの値段はたいして変わらないので、新しい蛇口を買いました。ホースは短いけど使っていないものがありました。
蛇口の取り替えで朝から気力と体力を使い切ってしまったような感じでしたが「浅草サンバカーニバル」を見に行くことにしました。
東武浅草駅には、午後0時10分頃に到着しました。もう人がいっぱいでした。駅前の通りを渡って日陰になっている場所で始まるのを待つことにしました。車の通行が規制された一瞬で場所取りが終了してしまいました。3列目くらいに座れそうでしたが、後ろにいた30代くらいの若ハゲ会社員風男が先に座り込み、大きな鞄をわたしの足にのせるようにたてかけているので、立ったまま身動きできなくなってしまいました。なんどか蹴りを入れてやりましたが無駄でした。このハゲのまわりはみんな人が立っているのでほとんど視界はないように思えましたが、本を読んだり居眠りをしたりで、何しに来たのか不明のハゲでした。
前に座っていた爺は、始まると立ち上がったので隙間がなくなり邪魔でした。立つならもう少し前に立てと言いましたが、なんの返事も返されずに無視されました。さらにいろいろムカつくやつらもいて、やっぱりもう人混みは嫌だと思ったのでありました。


荷風と歩く深川(4)



東森下町には今でも長慶寺という禅寺がある。震災前、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊日本左衛門の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄の横鼻緒を切ってしまった。
   (永井荷風「深川の散歩」より抜粋)



荷風と歩く深川(3)



六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方本所竪川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町の裏長屋に住んでいたことがあった。
   (永井荷風「深川の散歩」より抜粋)



2012年8月25日土曜日

荷風と歩く深川(2)



或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かつて芭蕉庵の古址と、柾木稲荷の社とが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。
 清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを聳かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平い倉庫の立ちつづく間に、一条の小道が曲り込んでいて、洋服に草履をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が俄に耳につく。
 この静な道を行くこと一、二町、すぐさま万年橋をわたると、河岸の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの湫路の傍に芭蕉庵の址は神社とって保存せられ、柾木稲荷の祠はその筋向いに新しい石の華表をそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。
   (永井荷風「深川の散歩」より抜粋)