2009年10月9日金曜日

まつおばななでじゃがまいたほいっ

蔵が小山市立車屋美術館となっている国登録有形文化財・小川家住宅の主屋は、なぜか内部の写真撮影が「禁止」となっていました。このような歴史的建造物が撮影禁止になっているのは珍しい(?)のではないかと思えます。他には、飛鳥山にある渋沢栄一の「晩香廬」と「青淵文庫」くらいかもしれません。東京都庭園美術館の旧朝香の宮邸ですら建物自体の公開期間には撮影できますし、、。
庭ではまだ蝉の声がしてました。これが今年聞く最後の蝉の声になるのではないかという気がしました。建物と比べると庭は凝ったつくりにはなっていない感じです。説明おばちゃんは、紅葉が綺麗だと言ってはいましたけど。
車屋美術館からは、だいぶ歩かなければなりませんが、間々田八幡宮まで行ってみることにしました。市へと貸し出しているらしい公園部分を含めると2万坪の敷地だそうです。由緒書きによると、、、10世紀頃には飯田(まんまだ)の里と呼ばれていたが「日光・江戸の中間なるをもってままだと改称した」となっていました。間違い箇所に「ママ」とルビふる元祖ではなさそうです。「頼朝手植の松」は、明治38年に枯れてしまい今は三代目の松の木のようです。屋根のついた相撲土俵がありました。ここのお祭りは「蛇祭り」と言って、5月5日の子供の日に大声で「じゃがまいた、じゃがまいた」と蛇の模型を担ぎ歩く、なかなかの奇祭らしいです。
嘉永年間建立の芭蕉句碑があるということなので、石碑をひとつひとつ確認したのですが、見つかりませんでした。池のアヒルも「アホ楽苦!!」と言いたげでした。そんなバナナとバショウは、どう違う?(笑)
『おくのほそ道』などに含まれるフィクション部分を読み解いてゆくと、、、芭蕉は、自ら書いているほど老い枯れていなくて、すこぶる元気、体力気力精力旺盛な山師的な人柄ではなかったのかと思えてきます。きっと栄養いっぱいなバナナを鱈腹食ってたのかもしれません。あるいは、それと知らずに朝バナナダイエットの元祖親爺だったのでは???(^^;)
間々田駅へと戻る途中で市立博物館にも寄ってみようと思ったのですが案内掲示が不十分で、あちこち遠回りしてしまい、なかなか見つかりませんでした。奈良時代に寺院の瓦をつくっていた窯跡(4基)という史跡がありました。その先、どこまでも続いていそうな水田の向こうに日光連山が見えていて、台風が引き連れてきた雲がかかって、なにやら壮大な景色でした。やっとでてきた博物館は、前を素通りです。もうそのあたりは、駅への入口を通り越してしまっていたようなので、もうひとつの八幡様(乙女八幡宮)へ寄りました。こちらにも屋根はありませんが、土俵ができていました。
駅へ着くとすぐ3分ほどの遅れまでに運行ダイヤが回復した上り電車にちょうど乗れました。

2 件のコメント:

  1. 松尾芭蕉は忍者、河合曾良は隠密と言う説の通りなのかもしれません。脚力精力とも秘薬なんとか丸でも口にしていたとかね(爆)。

    3分遅れ、日本の鉄道は優秀ですね。あのアメリカさえ、ほとんど適当といって言い運用には、ほとほと参りました(^^;ま、遅れなんだから乗り過ごす事はなかったけどね。

    返信削除