2009年10月5日月曜日

渡良瀬橋でまだ見ぬ夕日

きのうの続きになります。
八雲神社の裏手は、小高い丘のようになっていました。登って行くと、、、「足利公園第1号墳」という大きな説明看板があって、その少し上に横穴式の石室がありました。石室の入口にはステンレス製の扉が付いていましたが鍵が掛けられてなく中に入ることができました。明治19年の発掘調査で1体分の人骨や勾玉etc.が出土しているそうです。
なんだか果てしなく広そうな公園だと思っていたら、、、古墳群となっていて、なんと10基の古墳があるようでした。日曜日なのに誰もいなくて静かな公園となってました。
古墳を見る度に思うのですが、豪族とかの地域支配者の墓などと言われながらも、どの古墳も誰の墓なのか分かっていなくて、墓を守る子孫もいないというか、そこには必ず「断絶」があるということが不思議です。なんの根拠もなく思いつきで書いているだけですが、古墳が造られなくなった時代と何か決定的に違うものが存在するような気がしてしまいます。
坂道を下ってきたら「田崎早雲旧宅・早雲美術館」という案内板があったので、そちらに行ってみることにしました。まるで知りませんでしたが、田崎早雲は江戸末期から明治時代にかけての頃の画家でした。
美術館の中までは入らなかったのですが、お庭と「白石山房」と名付けられた家と画室、茶室を見て歩きました。白石山房は、明治11年に建てられたそうで二階建て藁ぶき屋根の家でした。斜面を登ったところから見下ろすと、いつもの夢で見たような既視感が、、、。
渡良瀬橋歌碑からはじまった散策が、古墳や画家の旧宅と思ってもみなかったことへつながっていきましたので、今回は織姫神社もばんな寺も足利学校も寄らないことにしました。早雲美術館の中は、次の機会に見ることにしましょう、、、気がかりを残すことが、再訪に繋がってゆくので(^^)

2 件のコメント:

  1. 古墳の終焉は、律令体勢の確立と、仏教の伝播、さらに火葬の始まりなどが原因とされているようです。ここでも宗教パワーが炸裂したのかも知れません。

    気がかりを残す事が、次への繋がりになる。

    なるほどです。いい言葉を聞かせてもらいました(^^)/

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