2012年9月10日月曜日

億劫の細道



芭蕉が日光へ到着したのは、元禄2年4月1日(陽暦では、5月19日)の昼過ぎでした。
元禄時代は、日光東照宮に家康が祭神として祀られてからおよそ80年程経っています。その頃は、武士は陽明門の中の石畳、庶民は門の前に土下座して本殿を拝したのだそうです。芭蕉と曾良がどのように参拝したかは分かりませんが、『曾良随行日記』には、「清水寺の書、養源院ヘ届。」とあって、浅草・清水寺からの紹介状を「養源院」へ持って行き日光東照宮拝観の便宜をはかってもらったようなのです。
今日はまずその「養源院跡」へ行きました。東照宮の後ろあたりに位置します。説明看板には、”寛永三年(一六二六)水戸頼房の養母英勝院が、於六の方の菩提を弔うために建てた寺である。家康の側室であった於六の方の院号が養源院であったことから、そのまま寺号とした。水戸家が代々の大檀家で、元禄二年(一六八九)には、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参拝した。明治以降廃寺となった。”と書いてありました。
今は、ふたつの墓があるだけです。右側の小さい墓が養源院(於六)、左の大きい墓が英勝院の墓です。
芭蕉と曾良は翌日、裏見の滝と含満が淵を見物して日光を後にしました。

一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原ヘ趣、常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
〇今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。
〇大渡ヨリ船入(船生)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川(鬼怒川)ヲカリ(仮)橋有。大形ハ船渡し。
〇船入ヨリ玉入(玉生)ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
一 同三日 快晴。辰上尅玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。
(曽良随行日記)

日光から矢板方面へ芭蕉の足跡を辿ってみたいと前々から思ってはいるのですが、正確なルートは特定できませんし、途中で一泊している距離であることを考えるとついつい「億劫」になってしまいます(^^;)

今日は、「白糸の滝」がある「瀧尾神社」へと向かいました。


1 件のコメント:

  1. 芭蕉は、常人ではないようですから、それなりの装備(と鍛錬かな?)が必要でしょうね。今は、仮橋も渡し船もないと思いますので、地図で迂回ルートを確保になるでしょうね(^^)

    泊まりたくない程の宿でどんなだったんだろう。

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