2012年9月9日日曜日

大江戸幻視行


先日、日光へと向かう電車の中で2005年に刊行された田中優子、写真・石山貴美子『江戸を歩く』(集英社新書)を読みました。
田中による「はじめに」には、、”この本は、今の東京を江戸の視点から撮った石山貴美子の写真集である。ほんとうは私は何も書くことはない。(中略)この本の文章は写真の解説ではない。写真は文章の参考図版ではない。”と書かれています。千住小塚原回向院に始まり鈴ヶ森の刑場で終わるという”背後に江戸を見ながら”の東京ガイドブックです。
この本にでてくる殆どの場所はすでに行ったことがありますが、「伝馬町牢屋敷」跡にはまだ行ったことがないかもしれないので行ってみることにしました。

江戸時代にはなかった「地下道」から地上にでようとすると大きなキリンが見下ろしていました。

”江戸時代には京都の古着商だった高島屋”は、外装工事中でした。

”日本橋の魚市場は芝居町、吉原と並んで一日に千両の金が動いた”そうです。なんだか高速道路のほうが「日本橋」みたいな景色です。日曜日だけかもしれませんが「日本橋クルーズ30分1000円」という船がちょうど出発しようとしていました。


現在の日本橋は、明治44(1911)年に完成したもので、ここでも「麒麟」が見下ろしています。
三越の前あたりでは、地下道を造る工事をしていました。あちこちでビルが工事中でした。芭蕉が29歳で伊賀上野から江戸にでてきたときに住んだという場所に石碑がありますが、『江戸を歩く』では全く記述がありません。

日本橋室町三丁目交差点の東北角には薬種問屋「長崎屋」があったそうです。案内看板がありました。その裏には、「時の鐘」があったので通称「鐘つき堂新道」と呼ばれたとのことです。時の鐘は、「十思公園」に移されて現存していました。


この十思公園が「伝馬町牢屋敷」跡です。”伝馬町牢屋敷は一六七七(延宝五)年に作られ、明治に入って市谷に監獄ができるまで約二〇〇年間続いてきた。不思議に思うのは、これぐらいの面積で、しかもたった一ヵ所で、約二〇〇年間牢獄が間に合った、ということである。それには理由がある。江戸時代には懲役刑がなかったからである。斬首、鞭打ち刑、島送り、江戸所払いなどの刑罰を受けるまで、あるいはその罰が決まるまでのあいだ、ここに留め置かれるだけなのである。” 
吉田松陰は、ここで処刑され小塚原回向院に埋葬されました。その遺体を高杉晋作が掘り出して、現在の世田谷にある松陰神社に埋葬し直したという話もあるようです。
人形町を通り水天宮前駅から帰ることにしました。その途中、富籤が興行されたという「椙森神社」に寄りました。ここにある「富塚」は他にないそうです。5円のお賽銭で、さっき八重洲地下街で買ったロト6で2億円が当たりますようにとお願いしておきました(笑)。




1 件のコメント:

  1. 時代小説を読むと、鈴ケ森は良く出てきますね。江戸へ向う一行が大森海岸に差し掛かると、ぼちぼち悪人共が出てきそうな山場として、或いは上りの時はここから六郷の渡しまでが第一関門。一度は歩いてみたいなと思っています。

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