2012年8月28日火曜日

荷風と歩く放水路



隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。
 わたくしはこれに因って、初めて放水路開鑿の大工事が、既に荒川の上流において着手せられていることを知ったのである。そしてその年を最後にして、再び彼岸になっても六阿弥陀に詣でることを止めた。わたくしは江戸時代から幾年となく、多くの人々の歩み馴れた田舎道の新しく改修せられる有様を見たくなかったのみならず、古い寺までが、事によると他処に移されはしまいかと思ったからである。それに加えて、わたくしは俄に腸を病み、疇昔のごとく散行の興を恣にすることのできない身となった。またかつて吟行の伴侶であった親友某君が突然病んで死んだ。それらのために、わたくしは今年昭和十一年の春、たまたま放水路に架せられた江北橋を渡るその日まで、指を屈すると実に二十有二年、一たびも曾遊の地を訪う機会がなかった。    (永井荷風「放水路」より抜粋)


「荒川放水路」は、1913(大正2)年から工期10年の予定で工事が始まりましたが、実際には1930(昭和5)年まで17年かかったそうです。荷風の「放水路」を読むと荷風自身は工事の様子を全く見ることがなかったということになります。まぁ工事中は歩こうとしても歩るかせてはもらえなかったかもしれませんね。




2 件のコメント:

  1. 一緒に散歩出来てお話を聞けたら・・・
    こんな友達が欲しかったなあと思います。

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  2. 荷風の気持ち分かるなぁ。私も実家へ帰るたびに思うのですが、無節操に街づくりされ、環境が整ってるのを見ると、思い出事奪われた気持ちになります。残すのは難しいのだろうなぁ。母親は地下鉄でも通ると(地価が上がって)いいねと言いますが(^^;

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