2011年12月14日水曜日

この里は気吹戸主の風寒し


息栖神社内に「芭蕉句碑」があります。昭和61年に神栖町教育委員会が建てた説明看板には、、、”松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(一六八七)八月十四日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。 (中略) 息栖神域の醸し出す風趣・威壊といったものを詠みあげたものであろう”とあります。
嵐山光三郎は『芭蕉紀行』(新潮文庫)で、”これは芭蕉の句ではない。”と断言しながらも芭蕉が息栖神社に来たということは”十分に考えられる”としています。芭蕉が息栖神社と香取神宮へ行ったことは、現存する文献のどこにも書いてないようです。では、教育委員は何を根拠にしたのでしょう???
芭蕉は、住んでいた家の前から船に乗って鹿島へと向かいました。水路を使えば一泊二日で到着できたようです。歩かずに船で息栖神社に寄った可能性は大ですが、やや高台にある香取神宮は曾良が行きたがっても無視したような気がします(笑)
「おくのほそ道」の旅もいきなり船で千住まで行って、そこで一週間くらい休憩してから出発したみたいです。

2 件のコメント:

  1. 芭蕉が香取へ来なかった(T_T) 残念だけど ヤッパリ~~と言う気分です(T_T) 息栖・・・言ってみたいけど無理だなあ\(-o-)/ 去年は靖国行けたけど今年は明治神宮無理かなあ\(-o-)/

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  2. 芭蕉は忍者ですからな(^^)神出鬼没、文章に残っているだけが活動の全てではないと、判断したのかも。

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