2012年3月5日月曜日

おののコマネチうるとらQ



ちょっとだけ朝焼けの空(写真・上)でしたが、殆ど太陽は雲に隠されたままで寒い日でした。上掲写真の右側にあるツインピークスが筑波山ですが、、、この前歩いた雨引山、燕山、加波山、足尾山、きのこ山はどの盛り上がりがそれなのか栃木県の大平山からでは分からなくなってしまいました。
午前6時半に東武日光線・新大平下駅に到着しました。午前7時、客人神社のある登山口から大平山を登りはじめて、午前7時半に謙信平、大平山神社を通って午前8時に大平山山頂、晃石山山頂で少し休憩して晃石神社に午前9時、桜峠が午前9時半と時刻が切りよく歩けました。富士山や日光連山はまるで見えませんでした。
今回は桜峠から山を下りて5キロ余り先にある「村桧神社」へ向かうことにしました。途中、「慈覚大師円仁の独鈷水」という湧水に寄りました。ほんの少しだけ飲んでみましたが、なんとなく苦みがありました。
花のいろはうつりにけりないたづらにの小野小町の墓は、日本中いたるところに散在しています。村桧神社のすぐ近くにもあります。小町の墓が存在するところは、たいてい「小野」という地名なのですが、ここは「小野寺」のようでした。小町は、出羽の出身だそうです。今でも東北出身の色白美人の大半は、小野氏と小野寺氏の末裔なのかもしれません???
村桧神社は、大化2(646)年に建立された古社です。本殿は、室町期に建造され「三間社春日造」という様式としては珍しい形とのことです。
この辺りには七つ(七水)の湧水があるのか、村桧神社には「石清水」と看板の付いた水たまりがありましたが、蛙かなにかのタマゴのようなものがいっぱいで、とても飲んでみる気にはなれませんでした(^^;)



3 件のコメント:

  1. 小野小町は平安前期9世紀頃の女性らしいですよね。出羽の郡司の娘ということが事実としたら、お供二人余りを連れて京の都へ旅立ったと想像するのが妥当でしょうか。私費留学と仮定して、郡司の財力では お供は娘が京に到着後は国許に戻ったと想像するのが妥当でしょう。表街道を歩き大きな旅籠に泊まる限り女性でも旅が出来たということなんですかね。娘はやがて京の社交界で活躍するわけですが、小野小町の墓が全国にあるってことなんだから彼女の評判が全国に伝わったのは間違いない。3.11で政府は原発メルトダウンの危機を周辺市に伝えることができなかったのですが、1000年以上もむかしから文化情報が全国に伝わったということにも驚かされます。国境ではまだまだ山賊や海賊がいた時代ですよね。口コミやタウン誌が実際的に媒体となったのでしょうか。150年前まで国民の9割は農民だったし農民は生まれてから死ぬまで村をでることはなかったっと歴史の教科書は記述していますが、本当のところ平安前期9世紀ころの様子はどんなだったのでしょうかね。写真の光景は当時と変わらないはずなので当時の人々の視点と同化するチャンスですよね。

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  2. 二番目の写真はまるで模型のように見えます!(^^)!
    多分カエルの卵でしょうが((+_+)) 私は見ると鳥肌立ちます。
    高価な錦鯉の模様も苦手です((+_+))
    でも、オタマジャクシが生きられる水質なら飲めるはず((+_+))
    山田なら飲んで大丈夫と言われてた( ^)o(^ )

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  3. 立派な屋根の建物ですね。ほとんどトタン張りの粗末な我家と比べると、随分違うなあ。去年の地震も耐えてるしね。羨ましいです。

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