2012年1月14日土曜日

なんとなく西行


埼玉県杉戸町にある「永福寺」の前に「西行法師見返りの松」があります。現在の松の木は三代目だそうです。伝承だけで文献がないのか、杉戸町のホームページに載っている”歌人としても知られる西行法師は、文治年間(1185~1190)、奈良東大寺再興歓進のため奥州平泉の藤原氏を訪れる旅に出ましたが、途中、病に倒れ、下高野にあった小庵(後の東大寺)で手厚い看護を受けます。無事に回復し、再び平泉への旅に戻った西行法師は、小庵を離れる際、庭にあったみごとな技ぶりの松を何度も振り返りながら出発したといわれ、いつしかこの松は「見返りの松」と呼ばれるようになりました。”というだけしか情報がありません。
文治二(1186)年。西行は69歳、前年に平家は壇ノ浦で滅亡しています。平泉の藤原氏は、将門を討った藤原秀郷から分かれた西行の親戚です。この東大寺料勧進の途中で源頼朝にも会っています。源義経が平泉に逃れるのは、この翌年で、三年後には義経も平泉の藤原氏も頼朝に滅ぼされてしまいます。栗橋駅前(現・埼玉県久喜市)に墓のある静御前と西行は会ったことがあったのでしょうか?
「すてはてて身はなきものと思えども雪の降る日は寒くこそあれ」と詠んだのは、”下高野にあった小庵”だとしているブログなどもありました。
芭蕉は『西行上人像讃』で西行の歌に付けて「花のふる日は浮かれこそすれ」と詠みました。もしこの歌が下高野で詠まれて、そのことを芭蕉が知っていたなら「奥の細道」旅のときに「見返りの松」に立ち寄ったのではないかと思います。歩いてみれば分かりますが、全く遠回りにはなりません。
さてさて、この歌は下高野で詠まれたのではないのか、芭蕉が知らなかっただけなのか???
窪田章一郎によると西行は桜の歌を230首、松の歌は34首、梅は25首詠んだとのことです。(松岡正剛の千夜千冊より孫引き)
ところで、、、冒頭の詞が「なんとなく」で始まる歌を西行は二十首ほど詠んでいます。三句目に使っていたり、詞書きにもいくつかあります。
西行と平清盛とは幼なじみでした。調べれば調べるほど、なんとなくわからなくなる歌人です。

(写真は、2007年2月に撮影したもの)

2 件のコメント:

  1. ググルと女院に失恋して出家したそうですが、優しい人だったのだろうなと思います。あこぎよのうと言われたら男ですからって答えればいいのに(^^;などど私は思います。

    芭蕉は、与えられた任務に無かったのでは(^^;

    返信削除
  2. 姫の入れ知恵なきにしもあらずですが、また大鉱脈を見つけてしまった^^。旅に出ます、時空を翔けて平安時代です。この時代の人間群像はたまりませんね。中・高のクソ教諭め、なんで教えてくれなかったんだよ~~~。

    返信削除