2011年12月14日水曜日

神々の三角定規


降っていた雨は、午前9時くらいには止んで、東京駅八重洲口を午前10時30分発の鹿島セントラルホテル行きのバスに乗りました。通常は、首都高速湾岸線から東関東自動車道へと入るらしいのですが、事故渋滞があるとのことで、首都高7号小松川線から京葉道路を通ってました。定刻より数分遅れで、鹿島セントラルホテル前に到着です。
三年越しくらいになってしまいましたが、江戸時代には大人気のツアーであったという香取神宮・鹿島神宮・息栖神社を参拝する「東国三社巡り」は、これから向かう「息栖神社」で完結です\(^^)/
息栖神社まで自動車向けの案内看板にしたがって歩いたらだいぶ遠回りだったようで小一時間かかってしまいました。
古くは、数キロ離れた「日川」というところにあった祠を大同二(807)年に現在地へ移したと伝承されているそうです。なぜか大同二年に創建された神社は数多くあります。そして大同年間は、天変地異が多発した時期でもあります。
「神栖」、「息栖」と「栖」の字を充てていますが、地形から判断すれば「洲」であることは明白なので、神栖は「上の洲」、息栖は「分岐点にある洲」という意味ではないかと思いました。カタカナで「イキス神」と書くとまるでエジプトあたりの神様のようです(笑)
三社を線で結んでみるとほぼ二等辺(直角)三角形になります。「日川」から線で結ぶとやはり二等辺三角形になります。鹿島神宮の要石は、大鯰の頭を押さえ込み、香取神宮の要石は大鯰の尾を押さえ込んでいるそうです。息栖神社に要石はありませんが、力石が二つころがっていました。たいてい要石は人が持ち上げられそうな大きさで、力石はめったに持ち上げられないくらい大きいのはなぜなのでしょう?
香取・鹿島は遠くからやってきた神で、要石はなくても「扇の要」となっているのが古来からの土着していた神である息栖なのかもしれません。
息栖神社の周辺にある家々の表札を見ると、、、「猿田」と「宮崎」姓が多くありました。猿田は、猿田彦神となんらかの繋がりがあるかもしれません。もうとっくの昔に忘れ去られてしまったのでしょうが、神を守っていた一族の末裔であるということもなきにしもあらずです。
息栖神社は、神栖市の市街地に背を向けるようにしてありますし、なんでこんなに何もないようなところに建てたのかと思いましたが、それは現代の陸路に惑わされているからで、神社のすぐ正面が常陸利根川でした。もっと昔は海だったかもしれません。江戸時代のツアー客はみんな水路でやってきていたのでしょう。そう考え直すと多くの船が幻視できそうになります。
社殿は、享保八年に建てられたものが昭和35年に焼失してしまい、昭和38年に建てられたそうです。鎮守の森は、散策路などなさそうでした。

3 件のコメント:

  1. 多田山田に住んだことがあるのに 要石も知らなかったし こんなに不思議な場所だったとは(T_T) 息栖も知らなかったので悔しい思いです。

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  2. 大同年間に天変地異が多かったというのは要出展ですな(爆)

    坂上田村麻呂が蝦夷征伐を終了し、勢力誇示のために神社を多く移設建立した、空海が糖から帰国し活動を始めた等の説があるようです。役所の白物と同じような(^^;

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