2011年8月25日木曜日

夕顔の昼間の顔と夜の顔


栃木のぱちもん「紫式部の墓」を見に行こうと今日も午前4時半に起床しましたが、、、窓を開けたら雨が強く降っていました。雨が止んできたのは、午前7時頃でした。予定より2時間近く遅れての出発でした。
「紫式部の墓」があるという栃木県下野市「天平の丘公園」の最寄り駅は、JR宇都宮線・小金井駅ですが、今回は東武日光線・新栃木駅から歩くことにしました。
午前8時40分くらいに新栃木駅へ到着しました。傘が必要なくらい雨が降っていました。ずっと雨は降ったり止んだりの繰り返しでした。蒸し暑くて、歩いていると身体がべとべとする感じでした(^^;)
歩道があったりなかったりの道路沿いをずいぶんと長く歩くので、もう少し雨が強いと車が通ったときに巻き上げる泥水の飛沫をいっぱい浴びてしまうことになったでしょう、、。
「思川(おもいがわ)」に架かる大光寺橋を渡って、栃木市から下野市に入ったのは、午前10時前後でした。栃木市内には、「下野国庁跡」の案内看板がありましたが、かなり遠回りになってしまうので今回は行かないことにしました。不思議なのは、中世の城跡のように人々の暮らしとは別な施設ならともかく「国庁」という国家の重要施設があった当時としては最も便利であったかもしれない所が、なぜ今は誰も住んでいないような場所になってしまったかです。
「天平の丘公園」の手前の農地には、あちこちに大きな瓜がたくさん捨てられていました。瓜は、「かんぴょう」でした。なぜ大量に廃棄、放置されているのか謎です。栃木県は、干瓢の生産では全国の8割くらいを占めるようです。
新栃木駅から徒歩2時間ほどで、やっと「紫式部の墓」に辿り着きました。公園内は、じめじめしていていろいろなキノコがいっぱいでした。想像していたよりも大きな五輪塔でした。
「環境庁」が設置した説明看板には、、、「この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたと思われ、ここより約1km北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は紫という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と、言われるようになったと思われます。」とありました。木っ端役人の作文なのでしょうが、どこの説明看板もへたくそです(笑)
時々雨が落ちてくる中、同じ道を引き返すのは気分的にとっても遠いので、JR小金井駅から帰ることにしました。

3 件のコメント:

  1. タイトル見て写真をじっくり観察したけど本文読まなければ正体が解らなかった(T_T) 祖父が干瓢と栃木の女で祖母と叔父を泣かせたので干瓢には深い思いがあります(^^)
    下の写真は何故かお伝之墓に見えてしまいます(T_T)

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  2. 木っ端役人の作文に手厳しいから特命の投稿文は理解不能でしょうね(T_T)

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  3. お伝さんのお墓は、五輪塔ではないようですね。
     http://www.youtube.com/watch?v=MRAuXruPns8
     
    機会があったら見てきます(^^)

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