2011年5月21日土曜日

『難航里見発見ででんのでん』


群馬県みどり市、高津戸峡近くにある史跡「山田氏及び里見兄弟の墓」を見てきました。馬琴『南総里見八犬伝』のモデルとなった里見氏終焉の地はこんなところにあったの?!とびっくりです。
長くなりますが現地にある説明看板に書かれているのは、、、
”高津戸城は後三年の役のあと寛治二年(1088)山田七郎平吉之が築き、その後二百数十年間当地をおさめていたが南北朝の観応二年(1351)に山田筑後守則之は桐生国網に攻められて滅亡した。凝灰岩製の大型五輪塔および阿弥陀堂内の阿弥陀石仏は南北朝以前の形式であるため山田氏のものである。戦国期に仁田山里見氏を頼って来た房総里見氏の里見上総介勝広が桐生氏によって謀殺されるやその子随見勝政と平四郎勝安は上杉謙信の援助で天正五年(1578)五月高津戸城を再興した。翌六年九月十六日金山桐生勢が高津戸城を攻め、夜は逆に里見勢が用命砦を攻めた。この合戦で平四郎勝安以下三十数名が戦死し随見勝政は切腹した。小さい安山岩製の五輪塔が里見勢の墓である。みどり市教育委員会”
どこの教育委員も名文は書けないようですね(笑)
帰ってからネットで房総里見氏の系図などを検索してみましたが、「勝広」とその子の名前はでてきません。

2 件のコメント:

  1. なんか気味の悪い景色だなぁ

    何でだろう?

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  2. 名文。スタートはもう少し文学的だったのかもしれません。上司の捺印が付く度、徐々に訂正されて、あげくはこんな仕上がりになるのだろうね。一番上の人は読んでもいないだろうから(^^;

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