2010年6月6日日曜日

里山に光り溢れて水涼し



明治・大正・昭和の三代隧道見物は、午前10時には終了してしまい、街に戻るバスはなしというところで、、、雨があがったとは言っても近くのハイキングコースを歩いたらずぶ濡れになりそうな感じでしたので、ちょっと遠いけど前に一度行ったことのある名草巨石群まで歩いてゆくことにしました。青空が広がって、紫外線がいっぱい!!(^^;)

峠から下ってきたところには、「庚申塔群」というものがありました。庚申塔は、道端にぽつりぽつりとあることが多いですが、ここには1740年から1860年(紀年銘のあるもの)に造立された129基が山の斜面にまとまって置かれていました。庚申信仰は、明治時代になると急に廃れてしまいますが、一番の原因はなんだったのでしょう???

重要文化財「南氏墓所」という案内看板がありましたが、400mほど奥へ入るので見ませんでした。やはり道からそれますが「日光神社」へ寄ってみることにしました。

大きな杉(御神木)がありました。下の方は一本の太い木に見えますが、地上5メートルのところで一本分かれ、さらに7メートルのところで四本に分かれ5本になって三十余メートルの高さとなっていました。南側の根元には穴があって、人が中に入れる空洞ができていました。内側は、焼かれて炭状になっていました。木を守るためにそうしたのか、穴の中で火を焚いたのかは、分かりません。のぞき込むと上が抜けていて光が差し込んでいました。

「今こそ、政権交代」と書かれた鳩山由紀夫と地元の立候補者らしきツーショット写真ポスターが貼られているのをあちこちで何枚も目にしました。

大勢の親子が川の中で遊んでいました。水着で泳いでいる子もいます。写真のトンボは、ここの川岸にいました。龍蠅(?)、まるで合金製のようなトンボです。オープンしたばかりらしき名草ふるさと交流館の建物は江戸時代の民家を移築したらしいのですが、新築にしか見えませんでした。

なぜ植物が「重要文化財」指定なのか謎ですが、「臥竜院のエドヒガン」も見てみました。寺の中に3本ほど古い枝垂れ桜の木がありました。樹齢は、推定200年余とのことでした。

あれやこれやで「厳島神社」(名草弁天)の赤い鳥居のところへ着いたのは、午後1時頃になってしまいました。

1 件のコメント:

  1. 明治政府の神仏分離政策あたりが起因だろう、何処の誰が始めたのかとネットで調べてみると、どのサイトも、Wikiの「明治時代になると、政府は...撤去を勧めた。」をまるっとコピーしたような文章ばかりで、何も得られませんでした。...ったく(^^;

    まぁ、移築したら、この先何年も持つように修復しますからね。この技術日本とフランスが世界一とか。。。

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