2009年4月5日日曜日

ナナとハチ、苦労の峠を越えて春

ナナとハチ、、、と言っても今回は、矢沢あい『NANA』のお話ではありません。
路傍に数多くある庚申塔には青面金剛が彫られていますが、制作者の名前まで刻まれていることは、殆どありません。ひとつだけ「石屋彦七」の銘があるものを見つけました。でもそれだけで、後が続きませんでした。
一昨日、小川町駅へと戻るときに、たぶん前を通ったら寄らずに通り過ぎてしまったと思えるような小さな神社の裏手を歩いていました。鴬が好い声で鳴いていたので、ふと見ると本殿にとっても立派な彫り物がしてありました。竹藪の隙間から入り込んで、表へとまわって説明看板を読んでみると「石原常八」という名前がありました。
この「石原」というのは、屋号ではなく名字なのでしょうか?彫り物は、作者一人で作られたのか、それとも大工の棟梁のようなものなのでしょうか?
先日歩いた群馬県板倉町にある雷電神社本殿の彫刻が「石原常八」です。彫るのにどれくらい時間がかかるのか想像できませんが、どちらの本殿も同じ時期の建立です。
一昔前ならば、県立図書館レベルのところまで出向いて、さてさてどんな本を見ればよいのか見当も付かずにあきらめてしまっていたでしょうが、、、今はネットで検索すれば、ある程度の所までいろいろ知ることができて助かります。
雷電神社の説明書きには、「左甚五郎第十代彫物師 石原常八」とあります。落語にも登場する左甚五郎、東照宮の眠り猫などの作者といわれている左甚五郎とどのようにつながってゆくのでしょう???
制作年代と当時の寿命から判断すると石屋彦七と石原常八がどこかで顔を合わせていたとは思えないのですが、時空を超えた想像をしてしまうというのも楽しそうです。人肌への彫物師は作品を残せないと同時に名前も残せないのでしょうか?謎と疑問は尽きませんけど、犬も歩けば棒に当たるで、次の棒に当たったとたんにもう忘れちゃってることでしょう、、、。

2 件のコメント:

  1. wikiを見ると、左甚五郎は名工の総称のようなもので、実在ではないと言う説も有るようです。石原上八は上州花輪村出身で、上州の左甚五郎と呼ばれた名工、関口文治郎と同郷、門下生のようです。左甚五郎は、実在すれば播州明石の生まれ...果して繋がるかどうか(^^;

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